阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

護摩法要を条件付きで勧めた釈迦牟尼世尊

南伝の上座部であるパーリ仏典、長部経典の梵網経では、護摩に否定的と考えられる箇所があります。

『沙門や婆羅門のなかには、護摩のような無益徒労の知識により、間違った生活をするものがいる』 

この一文で阿含宗釈尊の禁止した護摩をなぜたくのかと疑問をもつ方がいます。   

しかし、パーリと対応する北伝の上座部である漢訳阿含経の長阿含経の梵動経には、同様の箇所はありません。類似する箇所として

『水火の呪いなどで間違った生活をするものがいる』といいます。

水火の呪いとはなんでしょうか。阿含経では、護摩供養でしたら、祭祀、大會、火の祀りとします。漢訳のほうは護摩供養はとくに否定されていません。

むしろ、おなじ長阿含経の究羅檀頭経では、

『祭祀には火を上となし、諷誦には詩を上となし、人中には王を上となし、衆流には海を上となし、星中には月を上となし、光明には日を上となし、上下および四方、諸々のあらゆる所生物、天および世間の人には、唯、仏のみ最上となる。大福を求めんと欲せば、まさに三宝(仏法僧)を供養すべし』とあり、祭祀としての護摩法要にすこぶる肯定的であります。

さらに、スッタニパータとよばれるパーリ仏典のなかでも最も古い成立とされるお経には、漢訳阿含経と対応する箇所があります。

スッタニパータ第三 大いなる章 

五六八 火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー賛歌はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。

五六九 月は諸々の星のうちで最上のものである。太陽は輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。

※サーヴィトリーとは古代インドのバラモン聖典リグ・ヴェーダにある超有名なマントラをさします。

また五〇六では、

『マーガよ、祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合にこころを清らかならしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪をすてる。』

とあります。マーガさんはバラモン青年なので、祀りといえば護摩です。

一方では護摩を否定し、一方では護摩を肯定しているように見えます。       なぜでしょうか。

 

その答えは、パーリ仏典テーラガータ『仏弟子の告白』にありました。

中村元訳から抜粋します。

『わたしは種々の祭祀を行っていた。わたしは、火の献供をも実行していた。

ー「これは清浄なことである」と考えながら。わたしは盲目の凡夫であった。

誤った見解の密林に踏み迷い、誤った偏執にくらまされて、盲目であり無知であったわたしは、不浄を清浄である、と考え込んでいた。

わたしの誤った見解は捨てられた。迷いの生存はすべて壊滅された。わたしは、いま(真に)布施に値する火の祭りを行う。われは、修行完成者に敬礼する。

 

真に布施に値する火の祭りとは?

 

もう一度、スッタニパータのマーガさんのくだりにもどります。

四八七

マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、わたくしはお尋ねします。この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか」

彼の質問に、ブッダは、バラモンが功徳を求めて祀りを行うとき、何者ににささげた祀りが良いのかを諄々と説かれます。

『何者』とは、いったいだれなのでしょうか。

少し長くなりますが、中村元訳で一部引用します。

 

四六三 真実もてみずから制し、慎み、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、―そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。―バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

 

四六七 諸々の欲望を捨て、欲に打ち勝ってうるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

 

四六八 全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目覚めた人々、諸仏)と等しくして、平等ならざる者どもから遥かに遠ざかっている。かれは無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れに染まることがない。〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

 

四八四 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の特性を実に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、

 

四八五 かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを礼拝せよ。飲食物をささげて、かれを供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。

 

四八六 「目ざめた人(ブッダ)であるあなたさまは、お供えの菓子をうけるにふさわしい。あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。あなたに差し上げた物は、果報が大きいです。」

 

つまり、護摩供養は、ブッダにささげたとき、あるいは三宝にささげたときには、最上の福徳や功徳になるということです。