阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

『タイの僧院にて』青木保著 中公文庫を読んで。

この本は、リアルな上座部仏教(最初期の仏教に近いとされる仏教)の様子をかいまみることができる貴重な書籍です。そのなかには、最高位のお坊さんといえども、重要事項の決定にさいして相談にいくという、人気絶大な呪術僧の話(p.217)、また、悪霊に憑りつかれる話(p.235)、未来を占って的中させる占い僧の話(p.244)など、厳格に律にしたがうお坊さんのなかにも、さまざまなお坊さんがいるのだと感心させられました。

しかし、一点だけ釈然としない箇所がありました。

それは、タイの僧院で毎朝唱える経典の一部についてです。下記が青木氏が訳した文章です。

 

年を経る(朽ちてゆく)のは私の定めだ

年を経ること(朽ちること)を超えることはできない

 

病をすることは私の定めだ

病を超えてゆくことはできない

 

死ぬことは私の定めだ

死を超えることはできない

 

ここだけを読むと老病死は当たり前のことだから、諦めなさいと説いているように聞こえます。しかしブッダ生老病死、いわゆる四苦八苦を克服するために修行に入られたのですから、大きな矛盾です。このくだりだけだと、悟ってみて、やっぱり駄目だったと気づくというオチになりませんかね。

ここは、すごく仏教が誤解されているところだと思います。

そこで、最初の二行だけ、原文にあたってみました。

Jarādhammo 'mhi jaraṃ anatīto ti 

わたしは、老いる法として存在している。老いを乗り越えていない。

 

とあり、南伝大蔵経高楠順次郎訳では

我は老ゆべきものなり、未だ老を越えず

 

となっているので、やはり、これ、

人は老いるもの、老いを越えてはいないが、いつかは越えることができるというのが

素直な読み方です。この越えるという部分は、克服という意味もあります。あとの病と死もおなじです。

 

また同じく南伝大蔵経のくだりで、

 

唯だ我独り老ゆべきもの、未だ老いを越えざるに非ずして、往来死生する一切の有情は老ゆべきもの、未だ老いを越えず

 

といいます。往来死生とは輪廻転生のことです。意味は

 

私だけが、老いる法と老いを越えていないということがないのである。ただ、輪廻転生する生命は、いまだ老いの法と老いを越えられないのだ

 

といい、輪廻転生から解脱していない生命は、みな老いの法と老いからいまだ越えられていないのだと説いています。

 

諦めを説くのか、それを乗り越えることを説くのかで、まったく正反対の意味になるので注意したいです。