阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

阿含宗にお祀りされている仏舎利

カニンガムと仏舎利


カニンガムは、1862年に設立されたインド考古学調査局長官となり、精力的な発掘調査を行いました。その報告は逐次まとめられ、1872- 87にわたり、カニンガムシリーズとして23巻出版されました。それが『REPORTS OF THE ARCHAEOLOGICAL SURVEY OF INDIA 』:Alexander Cunningham, 1872- 87, reprint 1966- 72, Indological Book House, Varanasiです。
このシリーズの16巻(1881年の記録)においてブッダガヤの章を設け、仏舎利発見の様子をこう記しています。
「A quantity of charred wood, pieces of pottery, calcined bone, &c., were discovered beneath the ground level of asoka, by Mr. Brglar, Executive Engineer in charge of the Buddha Gaya works, and I believe five successive layers of flooring were also discovered indicating five well-marked and distinct epochs in the history of the temple.」p.133
ブッダガヤ発掘の実務を統括した技術者ベグラー氏は、アショカ(時代)のグランドレベルの地中より、相当量の焼けた木片、陶器のかけら、焼いた骨などを発見した。そして私は、五つの連続した床の層は、五つに分かれたこの寺の歴史を示す発見であったと信じている」

ここで、カニンガムは、菩提樹の正確な位置を特定し、ブッダが座して悟りを得た金剛法座のあった場所のアショーカ王時代の地層から、埋葬された骨を発見したのです。つまり、アショーカ王がわざわざお祀りした金剛法座のあった場所から、焼いた骨が見つかったということは、まさか、DNA鑑定でわかるはずもありませんが、おそらくブッダ釈迦牟尼世尊のご聖骨にまちがいないでしょう。

それでは、前田専学博士の解説を聞いてみましょう。
アショーカ王の伝記をつたえる『阿育王経』(第二巻)によれば、王は「10万金を以って菩提樹を供養し塔を起こして去った」という。この塔は幾度か改築され、さまざまな変容を受け、イスラーム教徒の来入よりもはるか以前に、すでにヒンドゥー寺院と化したといわれている。この塔は、六百数十年ものあいだ、土砂の中に埋もれていたが、一八七六年にビルマ王が三人の官吏を派遣して、埋没していた基底部の発掘を行った。またインド政府も、A・カニンガムの指揮のもとにミード証左が一八六三年に、寺院の周囲にトレンチを掘った。さらに一八八〇年に、ベンガル副知事A・イーデン卿がベグラーに発掘させ、一八八一年にベグラーがゴータマ・ブッダが坐してさとりを開いたという金剛坐を探り当てたのみならず、その下から仏舎利を見つけだした」p.53
『インド・道の文化誌』春秋社1995

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発掘当時の金剛法座

 

じつは、この由緒ただしい仏舎利は、のちにスリランカに分骨され、阿含宗にも招来されました。

 

1986年(昭和61年)4月7日、スリランカの首都コロンボ市(当時)の大統領官邸において、J・R・ジャヤワルダナ大統領閣下から桐山管長に直接授与されたものです。この真正仏舎利は、第1回目の渡来とは異なり、日本国にではなく一宗教団体としての阿含宗に贈られました。

https://www.agon.org/about/about_000017.php阿含宗ホームページより掲載