阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

釈迦牟尼時代の先祖供養

f:id:zaike:20200924110623p:plain


ブッダアートマンを認めていない。よって霊魂を認めず、先祖供養なども認めなかったという方が少なからずいるのですが、原典を素直に読めば、阿含経やパーリ聖典には先祖供養のはなしが随所にちゃんと説かれています。

なぜか仏典を近代合理主義の尺度でばっさばっさ切り倒してしまう学者や僧侶の方がいらっしゃるのです。

まるで、スーツをきて、銭湯の湯舟につかりにくるお客のようです。

 

そこで祖霊供養に関わるところを一部分抜粋してみます。


世の中で、母を敬うことは楽しい。また父を敬うことは楽しい。
(ダンマパダ』三三)
みずからは豊かに暮らしているのに、年老いて衰えた母または父を養わない人がいる。これは破滅への門である。
(『スッタニパータ』九八)


それでは、どうして両親を尊敬すべきなのかというと、
母と父とは子らに対し多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれたからである。(『アングッタラニカーヤ』第一巻一三二頁)


親に対する子のつとめ


後になると、「シンガーラへの教え」において親に対する子のつとめがまとめられる。
実に、子は、次の五つのしかたで、母と父に奉仕すべきである。すなわち、①私は両親に養われたから、彼らを養おう。②かれらのために為すべきことをしよう。③家系を存続しよう。④財産相続をしよう。⑤そうしてまた祖霊に対して適当な時に供え物を捧げよう。

 

父母供養のなかに、ちゃんと祖霊供養が入っています。今日では、親孝行と墓参りはわけて考えますが、両親がいるのは、祖先がいたからで、祖先にたいする感謝を忘れないということです。

阿含経にも父母供養を説く部分が少なからずあります。ではその供養のなかみはというと、『シンガーラへの教え」に説かれているとおりであります。

 

それでは、父母供養のお経をもうひとつ。

国訳一切経阿含部三、p.185欝多羅経

かくのごとく我れ聞きぬ。
一時、佛は、舍衞國の祇樹給孤獨園(サヘート・マヘート)に住したまえり。
時に年少の婆羅門あり。欝多羅と名づく。
佛の所に來詣し、世尊と面に相問訊し慰勞しおわりて、一面に座し、
佛にもうして言さく。

世尊。我は常に如のごとく、行乞し、
父母を供養し、樂を得て苦を離れしむ。我れかくのごとく作さば、
福、多しとなすやいなや。
佛、欝多羅に告ぐ。

じつに多くの福あり。ゆえは如何。
若し、法のごとく乞求して父母を供養し、それをして安樂ならしめ、
苦惱を除く者あらば、じつに大いなる福がある。
そのとき、世尊は偈を説いて言わく。

汝のごとく父母において、恭敬し、供養を修せば、
現世において名稱が流れ、命終しては生天に生ぜん。