阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

阿含経に説かれていた霊障 

阿含経 世記経 忉利天品 2

このお経はではなぜ霊障が起こるのかという原因にたいして釈尊が教えます。

仏は、比丘に告げられた。
「一切の、人々の住んでいる家々には、すべて鬼神がおり、空虚なところはない。一切の、通りや路地、大きな四つ辻にも、また、屠殺屋や市場、それに墓場の間にも、すべて鬼神がいて、空虚なところはない。およそ、鬼神というものは、すべて、居ついたものに応じて、そのまま、それを名前としている。人に居ついた場合には、その人の名を名とし、村に居ついた場合には、その村の名を名とし、城市に居ついた場合には、その城市の名を名とし、国に居ついた場合には、その国の名を名とし、土地に居ついた場合には、その土地の名を名とし、山に居ついた場合には、その山の名を名とし、河に居ついた場合には、その河の名を名としている」

仏は、比丘に告げられた。
「一切の樹木で、最も小さいものでも、車輪くらいのもの以上であれば、すべて鬼神が居ついており、空虚なものはない。一切の男子も女子も、生れたばかりの時から、すべて鬼神につきまとわれ、守護されている。もし、その人が死のうとする時、かの守護している鬼神がその精気を収めれば、その人は死んでしまうのである」

 

仏は、比丘に告げられた。
「もし、ある外道の修行者が、次のようにたずねたとしよう。
『みなさん、もし一切の男女が、生れたばかりの時から、すべて、鬼神につきまとわれ、守護されており、死のうとする時、かの守護している鬼神が、精気を収めれば、その人は死んでしまうということですが、では、人は何故に、鬼神に侵害されることがあったり、鬼神に侵害されることがなかったりするのでしょうか

 

もし、このような質問に出くわせば、おまえたちは、彼に、次のように答えるべきである。
世人が、法にもとる行為をし、邪悪な見解で物事を転倒して捉え、十種の悪業を行ったとしよう。このような人々にとっては、百人もしくは千人につき、かろうじて、一人の鬼神が守護しているだけである。たとえれば、群れ成す牛や羊の、百頭もしくは千頭が、ただ一人の牧人に守られているようなものであり、かの場合も同様に、法にもとる行為をし、邪悪な見解で物事を転倒して捉え、十種の悪業を行うならば、このような連中にとっては、百人もしくは千人につき、かろうじて、一人の鬼神が守護しているだけなのである。ところが、ある人が、善なる法を修め、見解は正しく、信心に従って実践し、十種の善業を行ったとすれば、このような人には、一人につき、百もしくは千の鬼神が守護してくれる。たとえれば、国王や国王の大臣は、たった一人で、百人もしくは
千人に護衛されているようなものであり、かの場合も同様に、善なる法を修め、十種の善業を行うならば、このような人には、一人につき、百もしくは千の鬼神が守護してくれるのである。このゆえに、世人には、鬼神に擾乱されることがあったり、鬼神に擾乱されることがなかったりするのである』」

 

この伝承には以下のことが述べられています。

①だれでも生まれながらに鬼神に付きまとわれている

②その人が死ぬときには、鬼神はその人の精気を取る

③鬼神はたくさんの種類があり、人、村、国などにいつく

④鬼神には守護する鬼神と、侵害する鬼神がある

⑤十種の悪業を行う人は、百人集まったとしても、一人の鬼神が守護する程度である

⑥逆に善業をおこなえば、一人につき、百人もの鬼神が守護してくれる

 

※この鬼神という言葉の意味ですが、やはりbhūtaのことと 思われます。鬼という漢字から、地獄の鬼や悪霊をイメージしがちですが、中国では鬼というのは人が死に霊魂の状態になることであります。またインドでも霊的存在をさすことばであり、悪い意味ばかりではありません。

仏教はこの鬼を飢えた死者の霊と考えて、餓鬼(プレータ)と呼びます。古代のインドでは、餓鬼は祖霊供養によって祖霊(ピトリ)となることができます。この祖霊供養が行われない状態の霊魂を餓鬼(プレータ)と呼びます。

bhūtaは、さまざまな霊的存在を示す言葉でしょう。サンスクリット辞書によれば

 A spirit, ghost, an imp, a devil とあります。

 

以上でわかることは、

ひとは生まれながらに霊的な存在の影響をうけ、それは、個人、家族、国といったレベルの影響があると考えられること。

悪業のつみかさねにより、霊的存在の守護の力は弱くなり、侵害する力が強くなるということでしょうか。

しかし、ここで疑問が出てきます。生まれながらに鬼神に付きまとわれるとはどういうことか。生まれたばかりの赤ん坊は、悪業など積みようがないではないかと。

 

さらに、世の中には罪がなく、煩悩もない方で、とても人間的に優れているような人が、不幸な目にあって亡くなる場合があります。

このケースなども、悪業による、鬼神のせいだとするのかということです。

こういった疑問、とくに仏教の業の問題で、自業自得、悪業苦果、善業楽果という因果応報的な考えは、矛盾しているのではという疑問が当然でてきます。

この答えは仏教では、ちゃんと答えがあります。

それは前世から積み重ねてきた業が報いとしてあらわれるということ、そのひとつの現象が霊的な障害であるということです。

たとえ、すぐれた人物でも、仏教では無数に六道輪廻を繰り返しますので、地獄に生まれることもあれば、天上に生まれることもある。わたしたちが生まれ変わって、飲んだ乳の量は、地球上の大海をはるかにしのぐといいます。その間に積んだ業というものは、いつか返ってくるわけです。

しかしここで誤解されては困るのですが、すべての事象を因果応報で説くのが仏教ですが、だからといって、不幸な人生や死に方をするのは当然と考えることは決してありません。

それゆえ、ブッダは因果応報の鎖からの解脱を生涯にわたって説き続けました。