阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

阿含経のなかの悪霊退散のはなし

 

このお経はじつは南方上座部仏教では邪霊を払うために今も唱えられているパリッタ(護呪)です。

伝承によると、ヴェーサーリーという国で疫病が蔓延しました。人々はさまざまな霊障除災の儀式を試みますが、まったく効果がないのです。そこで、ブッダに来てもらおうということになりました。ブッダが一歩その地に踏み出された瞬間、大雨が降ったといいます。そののち、無数の霊的存在に唱えられたのが次の偈頌です。

 

宝経
222 ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。
そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。
223 それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせずに、かれらを守れ。
224  この世また来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
225  心を統一したサキャムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、ーその理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

226 最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、ひとびとは「[さとりに向って間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この心の安定〉と等しいものはほかに存在しない。このすぐれた宝は理法の(教え)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
227 善人のほめたたえる八輩の人はこれらの四双の人である。かれらは幸せな人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。かれらに施したならば、大いなる果報をもたらす。この勝れた宝はつどいのうちにある。この真理によって幸せであれ。
228 ゴータマ(ブッダ)の教えにもとづいて、堅固な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に没入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝は一つといのうちにある。この真理によって幸せであれ。
229  城門の外に立っ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺がないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えらるべきである、とわれは言う。この勝れた宝はつどいのうちにある。この真理によって幸せであれ。
230 深い智慧ある人(ブッダ)がみごとに説きたもうた諸々の聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとい大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。この勝れた宝はつどい〉のうちにある。この真理によって幸せであれ。
231 自身を実在とみなす見解と、疑いと、外面的な戒律・誓いという三つのことが
らか少しでも存在するならば、かれが知見を成就するとともに、それらは捨てられてしまう。かれは四つの悪い場所かられ、また六つの重罪をつくるものとはなり得ない。このすぐれた宝がつどいのうちに存する。この真理によって幸せであれ。
232  またかれが身体によって、ことばによって、またはこころの中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、かれはそれを隠すことができない。隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。このすぐれた宝がつどいのうちに存する。この真理によって幸せであれ。
233 夏の月の初めの暑さに林の茂みでは枝が花を咲かせたように、それに譬うべき、安らぎに赴く妙なる教えを(目ざめた人、ブッダが)説きたもうた、 ためになる最高のことがらのために。このすぐれた宝が目ざめた人(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
234 勝れたものを知り、勝れたものを与え、勝れたものをもたらす勝れた無上の人が、妙なる教えを説きたもうた。このすぐれた宝が〈目ざめた人〉(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
235  古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が〈つどい〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
236  われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した〈目ざめた人〉(ブッダ)を礼拝しよう。幸せであれ。
237  われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した《教え》を礼拝しよう。幸せでめれ。
われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中の心のでも、神々と
人間とのつかえるこのように完成したつどいを礼拝しよう。幸せであれ。

 

中村元訳、ブッダのことば、スッタニパータ収録の有名なお経です。

上記の訳は中村元先生によるものですが、読んだだけではこれが霊障除災の呪文であるというこは誰も分からないと思います。

原文の冒頭を見てみます。

222 ここに集まった諸々の生きもの、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。
そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。

222. Yānīdha bhūtāni samāgatāmibhummāni vā yāni va antalikkhe,
sabbe va bhūtā sumanā bhavantu,atho pi sakkacca suṇantu bhāsitaṃ.

原文にbhūtāniという単語がでてきます。赤い色の文字がすべて原文ではbhūtāniとなっていますこれはbhūtaの複数形で、

水野弘元先生のパーリ語辞書をひくと、真実、生物、鬼神などとあります。

 Pali–English dictionaryでは、自然、幽霊、存在などとあります。

この場合は文脈上、霊的存在を意味しています。なぜなら、このブッダの言葉は、疫病を引き起こした霊的な存在にたいして、投げかけた言葉だからです。

この伝承は増一阿含経・力品、のちには密教経典の『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』にも説かれており、やはり、霊障除災の呪を釈尊がとなえて、鬼神たちが退散するという話です。

しかし、パーリの伝承でも、阿含経でも、悪霊たちはパリッタによって退散したことになっていますが、ただ退散しただけなのでしょうか。

パリッタの内容をみると、ブッダは霊的存在たちに歓喜せよ、慈しみをたれよ、かれらを守れ、この真理(仏法僧の真理)によって幸せであれと、幾度も繰り返し語り掛けています。

けっして桃太郎の鬼退治のように、霊的存在たちを悪鬼や、悪霊よばわりして、ばっさばっさとは切り倒していません。それどころかかれらに優しい言葉をかけています。

わたくし思うに、これは霊的存在たちが、ブッダのご威光に心を打たれ、執着を離れ、会心した。その時に唱えられた言葉ではないかと思います。

なぜなら、多くの人命を奪った荒れ狂う霊的存在がまず、いきなりブッダのことばに耳を貸すような余裕があるはずもないからです。つまり、言葉を発する以前に、ブッダのご威光による強力な浄化作用があったはずなのです。

このご威光の本体とは、ブッダ釈迦牟尼世尊の成仏力にほかならないと考えます。ブッダのパリッタはいわば、その成仏力の由来説明であり、その力の源泉こそ仏法僧の真理によると説かれていると思います。

 

現代人が、いわゆる合理主義で解釈すると、単なる神話、または神格化されたブッダということになるのですが、お経は、現在の科学的尺度で読んだら、たまりません。もちろん、現代医学や医療技術にとってかわろうとするものでもございません。

しかしながら、お経には、霊的な存在が人間に障りを成すことがあった! という記録が残されていたことは確かです。

この霊的な存在を抜きにしては、阿含経は紐解けません。霊的な存在は、ブッダが説かれた通り、地上にも空中にもうようよいるからです。