阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

阿含経を依経とする阿含宗がなぜ密教系の諸仏を礼拝するか。

そもそも、大日如来も、不動明王も観世音菩薩も歴史上の人物ではありません。

阿含経を依経とす阿含宗が、こうした密教系の諸仏諸菩薩を礼拝することに、違和感を感じる方がいても不思議ではありません。

そもそもこうした尊格は仏の持つ救済力や智慧、徳などを理念的に表した概念上の仏であります。ですから、その救済力に応じてさまざまに表現されたのが密教系の諸仏諸菩薩なのです。そのもとは、いうまでもなく、ブッダ釈尊であります。

阿含宗開祖は、機関紙の質問コーナーで次のように説かれています。

 

『真実の仏を奉戴してこそ真の力が授かる』
わたくしたち阿含宗信徒は実在の仏である釈迦如来のご聖骨、つまり真正仏舎利をご本尊としてお祀りしております。だからこそ、わたくしたちは観世音菩薩を通じて、実在の根本仏としての釈迦如来を拝むことができるわけです。それにより、釈迦如来大慈悲が観世音菩薩を通じてわたくしたちにくだされるのです。
しかし、たとえである架空の存在としての仏さましか拝んでいないのでは、架空の力しかいただけないぞ、とわたくしは言っているのです。分かりますか?

仏さまの中にはすさまじい念怒、怒りの心もあります。慈悲と念怒とは両立しないようだけれども、人を救わなければいけないという慈悲の心がきわまり、この人間はぶん殴らなければ目が覚めないという時は、仏さまの慈悲の表れは憤怒となり、げんこつをゴッンとくださる。これは深い慈悲の心から発した愛の拳です。
この念怒を表したのが不動明王です。ですから不動明王を拝むのでしたら、仏さまから叱られるような悪い心を捨て去るように願って、不動明王を通じて根本仏の釈迦如来に感謝の心を捧げ、「私は悪い煩悩をなくします」とお誓いすることが本当ではないのか、と申しているわけです。

 

このように、阿含宗では、さまざまな仏様を拝んではいても、その奥にブッダ釈尊の成仏力をいただいています。これを密教では本地身と呼びます。仏教語大辞典では、これを本地法身ともいい、一切の根本となる法身、すなわち毘盧遮那仏の実相法身をいうとあります。毘盧遮那仏とは、もとは太陽の意味で、仏智の広大無辺であることの象徴としました。阿含宗では、いうまでもなく、この仏智の本体とは釈迦牟尼であり、ご聖骨である仏舎利尊から発せられる成仏力をいうのです。

 

この仏智のさまざまな表れが、さまざまな尊格を産み出しているのです。それはごく自然なことで、救済すべき衆生は無数におりますから、その衆生に応じて法を説くわけです。たとえば大企業の社長がひとりでも、さまざまな部門に分かれて、それぞれの部門のリーダーたちがいろいろな仕事をこなすことと似ています。

 

いや、いや、わたしは釈迦牟尼一本でいきたい。釈迦牟尼世尊だけ拝んでいればいいではないか。とお考えの向きもあると思います。それはそれで、結構なことだと思います。しかしながら、さまざまな因縁に苦しむ衆生に対して、その衆生の目線にまで下りてくださり、共に因縁解脱を目指してくださるような仏さまがいたら、素晴らしいことではないでしょうか。

 

釈迦牟尼世尊こそ、そうした大慈大悲のお力を持つ仏さまでした。