阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

阿含経に説かれた「本地垂迹説」

前回、さまざまな因縁に苦しむ衆生に対して、その衆生の目線にまで下りてくださり、共に因縁解脱を目指してくださるような仏さまがいたら、素晴らしいことではないでしょうか。釈迦牟尼世尊こそ、そうした大慈大悲のお力を持つ仏さまでした。

と、述べました。

それは勝手に私が推測して言っているのではありません。阿含経にはっきりと記されている釈迦牟尼世尊の力であります。

 

アーナンダよ。 ここに八つの集いがある。その八つとは何であるか? 王族の集い、バラモンの集い、資産者の集い、修行者の集い、四天王に属する衆の集い、三十三天の神々の集い、悪魔の集い、梵天の衆の集いである。


アーナンダよ。わたしは幾百という王族の集いに近づいて、そこでわたしが、かつて共に集まって坐し、かつて共に語り、かつて議論に耽ったことを、ありありと想い出す。その場合わたしの(皮膚の)色は、かれらの(皮膚の)色に似ていた。わたしの声は、かれらの声に似ていた。
わたしは〈法に関する講話〉によってかれらを教え、諭し、励まし、喜ばせた。ところが、話をしているわたしを、かれらは知らなかった。ー〈この話をしているこの人は誰であるか? 神か? 人か?〉といって。わたしは、〈法に関する講話〉によって、かれらを教え、諭し、励まし、喜ばせて、すがたを隠した。ところがすがたを隠したわたしのことを、かれらは知らなかった。―(この、すがたを隠した者は誰であるか? 神か? 人か?といって。


アーナンダよ。わたしは幾百というバラモンの集いに近づいて……(略)
資産者の集いに近づいて….
修行者の集いに近づいて……
四天王に属する衆の集いに近づいて……
三十三天の神々の集いに近づいて……
悪魔の集いに近づいて……
梵天の集いに近づいて……
そこでわたしが、かつて共に集まって坐し、かつて共に語り、かつて議論に耽ったことを、ありありと想い出す。その場合にわたしの(皮膚の)色は、かれらの(皮膚の)色に似ていた。わたしの声は、かれらの声に似ていた。わたしは法に関する講話》によってかれらを教え、諭し、励まし、喜ばせた。ところが、話をしているわたしを、かれらは知らなかった。――(この話をしているこの人は誰であるか? 神か? 人か?)といって。わたしは、〈法に関する講話〉によって、かれらを教え、論し、励まし、喜ばせて、すがたを隠した。ところがすがたを隠したわたしのことを、かれらは知らなかった。―(この、すがたを隠した者は誰であるか? 神か? 人か?といって。

パーリ長部経典、大パリニッバーナ経

漢訳阿含経、遊行経にも同様の箇所があり、

そこでは、精進力、定力をもって至る所に出現したとあります。解説には仏が自己の本地を隠して八衆を救済する仕方がきわめてすぐれていることを述べているとあります。

参考文献:現代語訳阿含経典「長阿含経」第一巻 平河出版社

 

このお経は、ブッダのもつ不思議な能力を示しています。これを変化身といい、ブッダは望むものになんでも変化することができました。ブッダはこの能力によって、さまざまな衆生を救うことができたのでしょう。たとえば六観音は、こうしたブッダの変化身が発展してできた尊格と思われます。

この思想はやがて本地垂迹説として日本にも受け継がれました。

本地垂迹とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えである。 ウィキペディア

 

六観音コトバンクより)

仏語。六道にいて、衆生を救うという六体の観世音菩薩。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道に配置された観音。すなわち、地獄以下の六道に応じて順次、古くは大悲・大慈・師子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深音の六観音とされたが、密教では聖・千手・馬頭・十一面・准胝(じゅんでい)・如意輪(にょいりん)の六観音とも、准胝の代わりに不空羂索をさすともいい、また、千手・聖の三観音を入れかえる説もある。