教えの限界を突破する四神足法
ブッダは思想家としては、縁起、四諦、八正道の教えを説きました。けれども、これらの思想をどんなに理解しても、人間の心からは、貪瞋痴はなくなりません。大脳辺縁系に根ずく動物時代の名残をそのままにして、どんなに聖典を聞かせても、返って、自己抑圧、自己否定につながりかねないのです。
言葉の限界です。しかし、仏陀は貪瞋痴を消滅させる方法、成仏法という技法を残しました。これは教えではなく、技術なので、自ら実践するしかありません。それを七科三十七道品といいます。
その中心になるのが、四神足法であります。
もとより貪瞋痴は本を辿れば生命活動に由来し生命本能そのものでも有ります。
仏陀の成仏法は
大脳皮質、大脳辺縁系をこえて、直接間脳にアプローチして、始原の生命力をも制御する技術と言えます。
これは桐山靖雄師が『変身の原理』などで、40年以上前からしばしば説かれていたことでした。
するとブッダ、世尊が、経典で間脳を制御するなどということは聞いたことがないと違和感を覚える方もおられるかもしれません。
では、その証拠を経典をからご紹介します。
アー ナンダよ。いかなる人であろうとち、四つの不思議な霊力(四神足
ブッダは、四神足によって、生命力を制御する力をだれでもが持てると断言し、望むならば、だれもが寿命をコントロールできるであろうと説いています。
この寿命のある限りの箇所ですが、実際には「kappaṃ vā tiṭṭheyya」
直訳しますと
一刧でも存続できる
一劫とは宇宙の存続時間にも喩えられる無限に等しい時間です。
パーリの原文に忠実な南伝大蔵経には、
四神足法の修練によって、一劫、あるいはそれ以上でもこの世に止まることが可能であると説かれています。
なぜ、寿命のある限りというような意訳をしてしまったのでしょうか?
訳者の中村元博士は、これを神格化の第一歩と考えているからです。
つまり四神足法は一種の健康法だと考えているのです。
しかし阿含経で説く禅定世界における肉体を超えた純粋な精神的存在をも含めれば一劫は不可能では有りません。
また、厳密にいえば、ここで『神格化』されているのは、仏陀ではなく、四神足法そのものであります。なぜなら、仏陀はだれもが、この四神足法を修練することで、寿命を制御する能力を身につけることができると説いているからです。
そして仏陀は弟子たちに四神足法を伝授しているのですから、仏陀を『神格化』したことにはなりません。
次のくだりでは仏陀が自ら生命の素因を捨てたとあります。
『アーナンダよ。そうしていま、チャーパーラ霊樹のもとにおいて、今日、修行を完成した方は、念じ、よく気をつけて、寿命の素因(いのちのもと)を捨て去ったのである』
やはりここでも仏陀が生命力を念じよく気をつけて捨て去ったとあり、自ら生命維持の為の素因を捨てたと明記されています。いうまでもなく、四神足法で得た生命維持のための制御力を、マイナスに行使したということです。
もっともこれも神格化と言われるのでしょうが。
さて生命維持の機構は主に間脳が担当しています。生命活動の中枢が間脳にある以上、仏陀は明らかにこの部位にアプローチできたと考えることができます。例えば
視床下部(ししょうかぶ)は、内臓の働きや内分泌の働きを制御し、生命現象をつかさどる自律神経系の交感神経・副交感神経機能および内分泌機能を全体として総合的に調整しています。
体温調節、抗利尿ホルモン、血圧、心拍数、摂食行動や飲水行動、性行動、睡眠、子宮筋収縮、乳腺分泌などの本能行動、怒りや不安などの情動行動(大脳皮質・辺縁系皮質)の調節、自律神経系をコントロールする中枢の役割の他、内分泌(下垂体ホルモンの調節)の中枢も担っています。
(呼吸運動や血管運動などの自律機能は、中脳・橋・延髄で調節される)
出典
https://www.akira3132.info/diencephalon.html
貪瞋痴を制御し生命活動さえも制御する技法を仏陀がもっていたと考え無ければ、仏陀の教えは文字通り絵空事になってしまうでしょう。また実際にそうした技法が実在するならば、必ずそれは間脳へのアプローチになるはずです。