阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

仏陀の呼吸法で沙門果が得られるか?

沙門果として、

(四禅の次に)「自身の身体が、元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常的でない衰退・消耗・分解・崩壊するものであり、意識もその身体に依存している」と悟れる (= 「身念住」(身念処))
(その次に)「思考で成り立つ身体(意生身)を生み出す」ことができる
(その次に)「様々な神通(超能力)を体験する」ことができる (以下、神足通)

「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
梵天の世界にも到達できる」
(その次に)「神のような耳(天耳通)を獲得する」ことができる
「神と人間の声を、遠近問わず聞くことができる」
(その次に)「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)を獲得する」ことができる

などとありますが、仏弟子はなにもマジシャンになるために修行をしているのではありません。これは私たちが、人間存在(因縁)を超えて、自由な存在になることを表現したものでしょう。とりわけ、大切な果報として、

神と人間の声を遠近問わずに聞くことができる。

また、

他人の心を(自分の心として)洞察する力(他神通)を獲得することができる

とある箇所には注意を払うべきです。

なぜなら、人間が人間以上の存在になるためには、どうしても人間を超えた存在の導きが必要だからです。阿含経にも随所に、神霊や祖霊の導きによって仏陀にまみえることができたという話がでてまいります。

仏陀ですら、成道前に菩提樹を選ぶときには、精霊により守られ、歴代の仏陀たちが悟った場所と知ってそこを玉座と定めました。それは浄められた聖なる場であり、仏陀たちの思念に満ちた場だったのです。成道前に仏陀がそのような聖地を選んだというのは深い意義があります。

このジャータカ伝承の意味するところは、仏陀が修行によって、高い次元の霊的エネルギーを発する場所を感じ取る霊的な感性があったということと、高い次元の霊的エネルギーを発する聖地が成道のために必要不可欠であったとを物語っています。

だからこそ、仏陀は弟子たちに授けた成仏法に四神足法を加えたともいえるのです。

さて、仏陀の呼吸法や四神足法によって間脳を自覚的に活性化させることで、ひとは霊的世界に目覚めはじめ、神仏の導き(ご加護)を得ることができるようになります。

修行法だけでは、人間は人間存在としての次元を決して超えられないでしょう。

修行法と神仏の加護が加わって、初めて成仏法が成就します。

間脳はそのための受信機あり、また発信機でもあります。