阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

気づきの瞑想?

欧米でmindfulnessという初期仏教の瞑想法の一部が切り取られて、流行しています。それがまた逆輸入されてアジア諸国や日本でもよく、マインドフルネスとか、気づきの瞑想とか言われるようになりました。

簡単に言えば、自分の心や身の回りに起きることを注意深く観察しつづけていく心のトレーニングのことで、サティ、念(sati※⑴)といったり、ヴィパッサナー、観といったりします。

自分自身を客観的に見るという習慣づけは、さまざまな気づきをもたらしてくれます。たとえば、何かに腹が立った瞬間に、あ、自分は腹を立てていると気づきます。気づくことでそれ以上、エキサイトすることに自然とブレーキがかかります。

これを突き詰めると、縁起の法に気づき続けるということになります。

観自在菩薩. 行深般若波羅蜜多時. 照見五蘊皆空とあるようにです。

しかし、縁起の法に気づくだけでは、本当に貪瞋痴の三毒煩悩を浄化したことにはなりません。なぜなら貪瞋痴は、脳の奥ふかく、大脳辺縁系や、間脳の底に根を張っているからです。これを仏教では随眠ともうします。※随眠:随眠という名の無意識層『人間改造の原理と方法』桐山靖雄著

これは、眠っている煩悩のことで、いざとなるとスイッチが入り、暴れん坊将軍となります。こうなると、せっかくのマインドフルネスもどこへやら。いっぺんに水の泡になるのであります。脳のなかで、クーデターが起きるのです。お坊さんがなだめても、もうただではすみません。

思うに、気づきの瞑想には、なにか欠けているものがあるのです。

気づきには、サティ、satiという原語があります。しかし、サティ=気づきではありません。その意味は注意深く観察するという意味と、明瞭に想起するという積極的な意味合いがあります。

つまり、表面意識での想起、潜在意識での想起、深層意識での想起です。

潜在意識で想起、つまり思念するとどうなるかともうしますと、記憶された対象が、カメラやテープレコーダー、いまでいうバーチャルリアリティー映像となって鮮明に蘇ってまいります。

アーナンダは釈尊の説法を事細かに全て記憶したとありますから、念の達人であったのでしょう。

また、それだけでなく、深層意識の上で念が念力になると、念じたことと現象の境界があいまいになり、ついに火を念ずれば、火を現実化させ、仏を念ずれば、仏を現実化させることができるようになります。

これが仏陀の得意とした火界定のことです。つまり、念はそのまま三昧の究極の境地である、火界定につながっていくのであります。そして仏陀の火界定はその思念の強力な力により、他者をも成仏に導くのであります。

これがない念は、文字どおり、絵にかいた餅、あるいは文字だけのスローガンでしかなくなります。

気づきの瞑想のもとは、じつは、サティ、ありありと想起する力を強めることであり、そのためには潜在意識、深層意識の動員が欠かせません。そしてその力の極致が火界定であるということなのです。

※ 1) サティは梵語スムルティ。心に留める、思い出す、心に呼び出す、注意する、神の名前を呼び出す、暗唱するなどの意味がある。