気づきの瞑想? その2
気づきの原語はパーリ語で「sati」サンスクリット語で「smṛti」です。
その原義は想起すること、鮮明に想起して心を繋ぎとめ続けることです。
記憶するという意味もありますが、satiを妨げる記憶もあります。
桐山靖雄師は、深い意識の記憶には、随眠とよばれる眠った状態の煩悩が存在し、これがひとたび目覚めると、暴流となって人の衝動意識を支配すると指摘されています。『人間改造の原理と方法』pp.86-88
そして、表面意識、深層意識にしみついた習慣的な悪癖を『習気』とよび、深層意識における抑圧や葛藤からくる習気をとる必要があると説いています。同書pp.206-207
習気とは、仏教語大辞典によれば、潜在的印象、潜在余力、しばしば煩悩を起こしたことによる煩悩の余力であり、煩悩そのものは尽きてしまっても、習慣性が残っていることとあります。これが、過去世による善悪の行為によって残された潜在余力となって、現世に苦楽の結果をもたらすのです。p.596
この習気を取り去ることが『念覚支』のひとつとなります。なぜなら習気をそのままにして四念処観のような高度な瞑想法に取り組んでも、上手くいくはずもありません。むしろ害があるでしょう。
開祖、桐山靖雄師は、この念覚支を『仏陀の真実の教えを説く』にて詳説されていますが、大きく二つに分けて説かれています。下巻p.289
①念の力を強化する。
②四念処観を実践する。
①は一般的な表現でだれにも理解できるよう、知情意といった精神力を高め、それを非常に強化することとご指導されていますが、専門的にいえば、ここでは習気を完全に抜き去るような因縁解脱の修行と、過去の不徳を消すための梵行により、人格を浄め高める必要があります。上巻p.352
また、習気から自由になるだけでなく、念の力を集中したときには、実際に火を発するほど念の力を強めるともご指導されています。
これは専門的には、止観の極致で得た念の力により火界定にはいることを指しています。
そして、このような念の力をもって四念処観を修するのです。習気はそのままで、止観の欠けた四念処観は絵に描いた餅のようなものでしょう。
最後に念覚支の原意にもどります。
sati-sambojjhangassa bhāvanā
念ー覚支ー修習
ところで、ここでいうbhāvanaとは、実現する、発達成就という意味がありますが、ヨーガスートラによれば、神仏を念想(bhāvanā)することであり、その姿や声をヴィジョンとしてありありと見、聞くこととあります。『解説ヨーガスートラ』平河出版社 pp.62-63