気づきの瞑想? その4
サティ、漢訳で、念の修行です。
これをちまたで気づきと訳されています。これは念の一部を意味するだけであって、誤解を生みやすい訳です。
たとえば、阿含経には、六念、あるいは六随念という術語があります。これは、仏、法、僧、戒、施、天の六つを念じ続けることです。これはのちの密教の四度加行にも取り入れられていったわけです。
随念の原語は、anussati (anu-sati)またはanussarati(anu-sarati)
anuとは随ってという意で、sati、saratiとはサンスクリット語でsmṛti
では、どのように念じ続けるのでしょうか。
雑阿含経 念処品(六二三)
佛告比丘。若有世間美色。世間美色者。在於一處。作種種歌舞伎樂戲笑。復有大衆雲集一處。若有士夫不愚不癡。樂樂背苦。貪生畏死。有人語言。士夫汝當持滿油鉢。於世間美色者所及大衆中過。使一能殺人者。拔刀隨汝。若失一渧油者。輒當斬汝命。
たとえば広いフェスティバル会場には、ミスコンに集まる大勢の観客が騒いでいます。
このなかを油を満たした鉢をもってあなたは歩きます。そのとき、首切り役人があなたの背後をついてきて、一滴の油でもこぼしたら、即座に首を切り落とすそうです。
これらに一切かかわらず、念をひとつにして騒々しい歓声や美女を顧みず、会場をつっきります。
このようにして、文字通り、命がけで集中して、念じ続けます。仏陀はこのような念を行えるものが我が弟子であるとこの経では説かれています。