阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

気づきの瞑想? その4

サティ、漢訳で、念の修行です。

これをちまたで気づきと訳されています。これは念の一部を意味するだけであって、誤解を生みやすい訳です。

たとえば、阿含経には、六念、あるいは六随念という術語があります。これは、仏、法、僧、戒、施、天の六つを念じ続けることです。これはのちの密教の四度加行にも取り入れられていったわけです。

随念の原語は、anussati (anu-sati)またはanussarati(anu-sarati)

anuとは随ってという意で、sati、saratiとはサンスクリット語でsmṛti

では、どのように念じ続けるのでしょうか。

阿含経 念処品(六二三)

佛告比丘。若有世間美色。世間美色者。在於一處。作種種歌舞伎樂戲笑。復有大衆雲集一處。若有士夫不愚不癡。樂樂背苦。貪生畏死。有人語言。士夫汝當持滿油鉢。於世間美色者所及大衆中過。使一能殺人者。拔刀隨汝。若失一渧油者。輒當斬汝命。

たとえば広いフェスティバル会場には、ミスコンに集まる大勢の観客が騒いでいます。

このなかを油を満たした鉢をもってあなたは歩きます。そのとき、首切り役人があなたの背後をついてきて、一滴の油でもこぼしたら、即座に首を切り落とすそうです。

これらに一切かかわらず、念をひとつにして騒々しい歓声や美女を顧みず、会場をつっきります。

このようにして、文字通り、命がけで集中して、念じ続けます。仏陀はこのような念を行えるものが我が弟子であるとこの経では説かれています。

 

 

気づきの瞑想? その3

気づきの瞑想、その代表的瞑想が四念処観ですが、このごろはYouTubeでも指導動画がアップされるなど、注目されています。

仏教の瞑想修行に興味をもたれるかたは、とにかく、テクニックをはやく知りたがるわけです。そこで、YouTubeでということなんでしょうけれども、

たとえば、身念処の不浄観ですが、いきなりやったら、マジでうつ病になりかねません。また適齢期の真面目な若者がやったら男女交際に抵抗を持つようになりはしませんかね。ひいては出生率にも影響するのではないでしょうか。

仏陀の修行法というのは、師匠なり阿闍梨などが、弟子の機根に応じて慎重に授けるものです。

阿含経にこのような経典があります。

阿含經卷第二十九(八〇九)

時諸比丘。修不淨觀已。

極厭患身。或以刀自殺。或服毒藥。或繩自絞。投巖自殺。或令餘比丘殺。

なんと不浄観を熱心に取り組みすぎて、自殺者が出たのです。また、天魔にそそのかされて自殺幇助をするバラモンまで出現しました。

そこで仏陀

阿難。何等爲微細住多修習。隨順開覺。已起未起惡不善法。能令休息。謂安那般那念住。

阿難よ、微細住を多く修習し、隨順に開覺すれば、すでに起きた悪不善の法をよく休息せしむ。所謂、安那般那の念に住するなり

と呼吸法を教えました。

もちろん仏陀は、四念処をいきなりやりなさい、なんてことは説いていません。こんなことにならないように、四念処観は、

 雜阿含經卷第二十四(  六二四)

佛告欝低迦。汝當先淨其戒。直其見具足三業。然後修四念處。

佛、欝低迦に告げたまわく、『汝、まさに先その戒(習慣)を浄め、その見を直して、三業(身口意の三業、いわゆる十善業)を具足すべし。しかるのち、四念処を修習せよ。』

ちゃんと、習気のような悪因縁を浄め、正見(正しい価値観)を持ち、十善業がきちんと修められるようになったら、四念処観を実習しなさいと説いています。

悪因縁を浄めるだけでも、大変、熱意と時間のかかる修行です。ましてや四念処観がどれほど高度な瞑想法か、おしてしるべきでしょう。いたずらに文字や、言葉、まして動画などから真似するものではありません。

気づきの瞑想? その2

気づきの原語はパーリ語で「satiサンスクリット語で「smṛti」です。

その原義は想起すること、鮮明に想起して心を繋ぎとめ続けることです。

記憶するという意味もありますが、satiを妨げる記憶もあります。

桐山靖雄師は、深い意識の記憶には、随眠とよばれる眠った状態の煩悩が存在し、これがひとたび目覚めると、暴流となって人の衝動意識を支配すると指摘されています。『人間改造の原理と方法』pp.86-88

そして、表面意識、深層意識にしみついた習慣的な悪癖を『習気』とよび、深層意識における抑圧や葛藤からくる習気をとる必要があると説いています。同書pp.206-207

習気とは、仏教語大辞典によれば、潜在的印象、潜在余力、しばしば煩悩を起こしたことによる煩悩の余力であり、煩悩そのものは尽きてしまっても、習慣性が残っていることとあります。これが、過去世による善悪の行為によって残された潜在余力となって、現世に苦楽の結果をもたらすのです。p.596

この習気を取り去ることが『念覚支』のひとつとなります。なぜなら習気をそのままにして四念処観のような高度な瞑想法に取り組んでも、上手くいくはずもありません。むしろ害があるでしょう。

開祖、桐山靖雄師は、この念覚支を『仏陀の真実の教えを説く』にて詳説されていますが、大きく二つに分けて説かれています。下巻p.289

①念の力を強化する。

②四念処観を実践する。

①は一般的な表現でだれにも理解できるよう、知情意といった精神力を高め、それを非常に強化することとご指導されていますが、専門的にいえば、ここでは習気を完全に抜き去るような因縁解脱の修行と、過去の不徳を消すための梵行により、人格を浄め高める必要があります。上巻p.352

また、習気から自由になるだけでなく、念の力を集中したときには、実際に火を発するほど念の力を強めるともご指導されています。

これは専門的には、止観の極致で得た念の力により火界定にはいることを指しています。

そして、このような念の力をもって四念処観を修するのです。習気はそのままで、止観の欠けた四念処観は絵に描いた餅のようなものでしょう。

 

最後に念覚支の原意にもどります。

sati-sambojjhangassa bhāvanā

念ー覚支ー修習

ところで、ここでいうbhāvanaとは、実現する、発達成就という意味がありますが、ヨーガスートラによれば、神仏を念想(bhāvanā)することであり、その姿や声をヴィジョンとしてありありと見、聞くこととあります。『解説ヨーガスートラ』平河出版社 pp.62-63

 

 

 

 

ブッダの瞑想法を成就させる絶対条件

ブッダの瞑想を成就するための、絶対条件とは、神霊の加護と導きです。

ヨーガスートラにも、自在神への祈念によって三昧が得られる。自在神は太古のグルたちにとってもグルである。とあるように、神霊の導きによって瞑想が成就することを説きます。

仏陀もまた、パーリ聖典阿含経で、繁栄や幸福のためには、神霊の加護が必要なことを説いています。

「聖賢 の 生れ なる 人 が 住居 を かまえる 地方 において、 そこで、 有徳 に し て 自ら 制 せる 清浄 行者たち を 供養 し た なら ば、 そこ に いる 神霊 たち はかれ ら に 施与( の 功徳) を ふり 向ける で あろ う。 かれ ら( = 神霊) は 供養 さ れ た なら ば、 またかれ を 供養 し、 崇敬 さ れ た なら ば、 また かれ を 崇敬 する。 かく て、 かれを愛護する こと、 あたかも 母 が わが子 を愛護 する よう な もの で ある。 神霊 の 冥々 の 加護 を 受け て いる 人 は、 つねに 幸運を 見る。」ブッダ最後の旅 中村元

仏陀の瞑想法は、六道のマトリックスから自由になるという因縁解脱を目指すのですが、その六道世界のなかにあって、因縁解脱の修行を成就するためには、神霊の冥々の 加護が必要だと説くのです。

その とき 遍歴 の 行者 サビヤ に、 昔 の 血縁 者 で ある が( 今 は 神 と なっ て いる) 一人 の 神 が 質問 を 発し た、「 サビヤ よ。〈 道 の 人〉 で あろ う とも、 バラモン で あろ う とも、 汝 が 質問 し た とき に 明確 に 答える こと の できる 人 が いる なら ば、 汝 は その 人 の もと で 清らか な 行い を 修め なさい」中村 元. ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) (p.152)

サビヤという行者は、おそらく彼の守護霊となった祖霊から導きをうけ、遍歴ののち、ブッダに出会い、ついに阿羅漢になります。

つぎの経典では、大仙人バーヴァリが遊行のバラモンにたいして、施しができなかったことを逆恨みされ、呪いをかけられて、懊悩していると、神霊が指導にあらわれます。

九 八 三  「 わたくし が 乞う て いる のに、 あなた が 施し て くださら ない なら ば、 いま から 七日 の 後 に、 あなた の 頭 は 七つ に 裂け て しまえ。」

九 八 四   詐り を もうけ た( その バラモン) は、( 呪詛 の) 作法 を し て、 恐ろしい こと を 告げ た。 かれ の その( 呪詛 の) ことば を 聞い て、 バーヴァリ は

苦しみ 悩ん だ。

九 八 五   かれ は 憂い の 矢 に 中 てら れ て、 食物 も とら ない で、 うちしおれ た。 もはや、 心 が この よう な 気持 では、 心 は 瞑想 を 楽しま なかっ た。

九 八 六   バーヴァリ が 恐れ おののき 苦しみ 悩ん で いる のを 見 て、( 庵室 を 護る) 女神 は、 かれ の ため を 思っ て、 かれ の もと に 近づい て、 次 の よう に 語っ た。

九 八 七  「 かれ は 頭 の こと を 知っ て い ませ ん。 かれ は 財 を 欲し がっ て いる 詐欺 者 なの です。 頭 の こと も、 頭 の 落ちる こと も、 かれ は 知っ ては い ない の です。」

九 八八  「 では、 貴女 は 知っ て おら れる の でしょ う。 お尋ね し ます が、 頭 の こと も、 頭 の 落ちる こと をも、 わたくし に 話し て ください。 われ ら は 貴女 の お ことば を 聞き たい の です。」

中村 元. ブッダのことば-スッタニパータ (岩波文庫) (p.307)

バーヴァリは年老いた仙人でしたが、神霊の導きによって、門弟16人にブッダを訪ね、彼の教えを聞くことを命じます。16人は神霊が告げた町で仏陀の教えを受けてその場で帰仏し、帰還するとすぐにバーヴァリにブッダの教えを再演し、バーヴァリもまた、その場で不還果という聖者の位を得ました。

瞑想の初心者は瞑想のメソッドに気を取られ、肝心の部分が抜け落ちやすいです。大仙人バーヴァリですら、瞑想成就のためには、神霊の導きが必要でした。神霊の導きがなかったら、かれの懊悩は消えず、瞑想は成就しなかったでしょう。

瞑想法を成就させるのは、メソッドではなく、神霊の加護です。これまで、瞑想とは大脳の開発に他ならないと主張してきましたが、大脳のような複雑な機構をもった組織を神霊の加護なくして自力で改変、または増幅など、不可能といってもよいとおもいます。大脳は、物質界、精神界、霊界に通じており、それぞれの世界にバランスよくアクセスすることが必須です。しかし、霊界に通じる大脳、すなわち間脳にアクセスするためには、霊的世界に通じたブッダの導きと神霊の導きが必要不可欠であることを経典は説いているのであります。

阿含宗開祖もまた、つぎのように説いています。『龍神が翔ぶ』のなかで

「ほんとうの超能力は、最高の守護霊・守護神をもったときに発揮される。その守護霊・守護神の霊徳がそのほとの徳となり、その神力がそのひとの能力となるからである。」

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龍神が翔ぶ』は、人が人という因縁の枠を超えるために、守護神、守護霊をもつことを勧め、その持ち方を分かりやすく、明瞭に解説した名著です。御一読をおすすめいたします。

 

 

 

 

仏陀の大脳開発法02

しかしながら、ブッダの教えのどこに、やる気のスイッチが大脳基底核側坐核にあるなどと説かれているのか?と疑問にもたれるかたもいらしゃるでしょう。

パーリ聖典のアーナパーナ・サンユッタには、

「我、心行を覚して入息せん」と学し、「我、心行を覚して出息せん」と学し

「我、心行を止めて入息せん」と学し、「我、心行を止めて出息せん」と学し

というフレーズがたびたびでてきます。

この心行というのは、いつも身行と対になるフレーズで構成されており、チッタ・サンカーラといいますが、このチッタがどこにあるのでしょうか。身と対になる箇所、すなわち大脳であります。サンカーラとは多義的な言葉ですが、潜在形成力とか構成要素などと訳されています。多義的な言葉は語根を突き止めると、明瞭になります。語根は kṛで、何かを作る、または心、思考を向ける、巡らせるという意味があります。

ブッダはここで、大脳に心を巡らせなさい、turn the mind or thoughtsと説いています。どこにでしょうか? 大脳を構成する要素にほかなりません。

そこまで断言できるのは、覚してというフレーズがあるからです。ここでいう覚(paṭisaṃvedī)というのは、経験する、感知するという意味で、ブッダはここで、まさに大脳の構成要素を感知しなさいと説いているのです。そしてそれは呼吸を通じておこなうことでしか、実現しません。何故なら仏陀の説く呼吸法は四神足に深く関連し、四神足は生命中枢を制御する方法だからです。さらにいうなら、呼吸とは、単に酸素を取り入れることではなく、ヨーガでは常識とされる生命力、プラーナを呼吸によってとりいれるということですから、プラーナを大脳の構成要素のひとつひとつに巡らせたり、止めたりしなさいと説いているのです。

これを仏典から発見したのは、おそらく阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正が初めてだと思います。ここは、誤解をさけるため、下記の本をぜひご一読お勧めします。

大脳の構成要素のいちいちを覚知するなどということは、不可能だとお思いでしょうか。わたしも最初は意味が分かりませんでした。しかし、瞑想をつづけるうちに、まるで目が見えなくても、ゆびの一本一本の感覚がわかるように、大脳を構成する器官を感じることができるようになるのだということを確信するようになりました。

開祖は人はだれでも五つの超能力が持てると説いていました。

その五つとは、猊下の著書『変身の原理』にある、

1事物の明確な認識と予知および正確な選択力

2すぐれた高度の創造力

3自分を変え、他人を動かし、自分の思うままに環境をつくり変える力

4強靭な体力と卓抜な精神力

5すさまじい爆発的な念力による願望達成力

はじめにこの著書を読んだときは、これは誇張で、一部の天才には可能かもしれないが、自分にはとうてい無理だと思いました。しかし最近は大脳の器官にはそのような力を生み出す部位が事実あり、その部位がある以上はだれでもが五つの超能力を持つことができると主張するのは、けっして誇張ではないと考えるようになりました。

このような五つの超能力は、大脳を自在に運用できるようになれば、だれでも不可能ということはありません。もちろん、いうだけならたやすいことですが、そのような力を生み出す器官があなたや私の大脳にも確かにデフォルト実装されているのであります。

これは、まさにブッダの四神足法を現代的に意訳したものといえるのではないでしょうか。

 

仏陀の大脳開発法

四神足はブッダの成仏法の核ともいえる、瞑想による大脳の開発であることは、以前ご紹介しました。欲神足は倶舎論記などで「欲三摩地断行成就神足」などと解説されますが、要するに意欲を自在に制御する瞑想法です。人間なにをなすにも意欲がなかったらできません。その意欲の源はどこにあるのでしょうか。大脳生理学では大脳基底核側坐核にあるということが分かっています。この部位を瞑想で刺激することにより、やる気が出てくるのであります。2,500年前のブッダがこの脳の機能を知るだけでなく、活用法まで教えていたとは、まさに驚異です。

では、なぜそんなことがいえるのか? そのカギは呼吸法にあります。まえにも書きましたが、ブッダの呼吸法は、呼吸中枢を担う脳幹を通じて間脳にいたり、自律神経を一時的に制御して、シータ波を作り出します。このシータ波は、海馬を刺激して、海馬から脳弓、帯状回側坐核をめぐり、やる気を起こさせるのです。

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また、シータ波の刺激が海馬の記憶力を増大させることもわかってきました。さらに海馬から脳弓、帯状回前頭前野を刺激することで、扁桃体の働きである怒りや不快な感情を抑制して前向きな感情を引き出せることもわかっています。聖人や仏菩薩の頭部で輝く光輪は比喩ではありません。実際に脳細胞は電気信号によって活動しています。活発に活動する脳細胞はその電気信号によって発光するように見えるのです。

瞑想をはじめて陥る魔境

瞑想を始めるということは、脳をいじるということでもあります。かき回すといってもいいかもしれません。瞑想によって潜在意識が目覚め始めると、潜在意識に封じ込められていた様々な抑圧意識が出現することがあります。

私の場合は、瞑想をはじめてから、しばらくして金縛りや悪夢にうなされるようになってしまいました。そして、それは瞑想をやめてからもずっとつづきました。長年、非常に苦しめられたのですが、阿含宗でご先祖供養をすることで、すっかりなくなり、安眠できるようになりました。

瞑想が流行すること自体はよいのですが、問題は潜在意識、またもっと深く眠る深層意識に押し込められたトラウマが出現することです。これに対応する具体的な処置はほとんどありません。

天台小止観などの指導書にはとらわれるな、とらわれなければ自然に消えると説かれていますが、本当のトラウマは一度出現したらそんな甘いものではありません。ですから小止観も最後には、善智識に近づけと説くのみであります。

さて、この抑圧意識ですが、『脳と心の革命瞑想』桐山靖雄著では、二種類が挙げられています。

フロイト型(潜在意識の抑圧意識)

⑵ソンディ型(深層意識の抑圧意識)

これらの抑圧意識を解消しないで、瞑想を始めてしまうと、人によっては私のように長年苦しむことになるでしょう。

フロイト型は個人の幼少期に受けたトラウマが原因となるものです。

ソンディ型は自分の誕生する以前、すなわち特定の先祖の欲求が自身の恋愛、友情、病気、死に方まで決定してしまうという理論で、家族的無意識によって自己の運命が支配されてしまうという理論であります。

これらを把握し、どのように解消するのか本書のテーマでもありますが、誤解をさけるため、瞑想を始める前に、ぜひ一読をお勧めいたします。

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追記

現代心理学を代表するリポット・ソンディ博士のこの特定の祖先の抑圧意識が個人の運命を反復させるという理論ですが、じつはジャータカ物語にある釈尊とその従弟、提婆達多の間にも見られます。

釈尊提婆達多の関係は、はるか昔の前世から、だまし討ちに会う釈尊と、だまし討ちにする提婆達多という構図です。提婆達多は生まれ変わっては、同時代に生まれ変わった釈尊をライバル視して、いつも敵対関係になります。もちろん釈尊は菩薩ですから意にも介さず、墓穴を掘るのはいつも提婆達多の方なのです。

この場合の運命の反復現象は、祖先の抑圧ではなく、前世の抑圧意識によるものですが、祖先と前世はどこかで縁があると考えられますし、生まれる以前の深層意識が運命の反復現象をもたらすという点では、ソンディの理論とも一致しています。