阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

仏陀の呼吸法で沙門果が得られるか?

沙門果として、

(四禅の次に)「自身の身体が、元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常的でない衰退・消耗・分解・崩壊するものであり、意識もその身体に依存している」と悟れる (= 「身念住」(身念処))
(その次に)「思考で成り立つ身体(意生身)を生み出す」ことができる
(その次に)「様々な神通(超能力)を体験する」ことができる (以下、神足通)

「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
梵天の世界にも到達できる」
(その次に)「神のような耳(天耳通)を獲得する」ことができる
「神と人間の声を、遠近問わず聞くことができる」
(その次に)「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)を獲得する」ことができる

などとありますが、仏弟子はなにもマジシャンになるために修行をしているのではありません。これは私たちが、人間存在(因縁)を超えて、自由な存在になることを表現したものでしょう。とりわけ、大切な果報として、

神と人間の声を遠近問わずに聞くことができる。

また、

他人の心を(自分の心として)洞察する力(他神通)を獲得することができる

とある箇所には注意を払うべきです。

なぜなら、人間が人間以上の存在になるためには、どうしても人間を超えた存在の導きが必要だからです。阿含経にも随所に、神霊や祖霊の導きによって仏陀にまみえることができたという話がでてまいります。

仏陀ですら、成道前に菩提樹を選ぶときには、精霊により守られ、歴代の仏陀たちが悟った場所と知ってそこを玉座と定めました。それは浄められた聖なる場であり、仏陀たちの思念に満ちた場だったのです。成道前に仏陀がそのような聖地を選んだというのは深い意義があります。

このジャータカ伝承の意味するところは、仏陀が修行によって、高い次元の霊的エネルギーを発する場所を感じ取る霊的な感性があったということと、高い次元の霊的エネルギーを発する聖地が成道のために必要不可欠であったとを物語っています。

だからこそ、仏陀は弟子たちに授けた成仏法に四神足法を加えたともいえるのです。

さて、仏陀の呼吸法や四神足法によって間脳を自覚的に活性化させることで、ひとは霊的世界に目覚めはじめ、神仏の導き(ご加護)を得ることができるようになります。

修行法だけでは、人間は人間存在としての次元を決して超えられないでしょう。

修行法と神仏の加護が加わって、初めて成仏法が成就します。

間脳はそのための受信機あり、また発信機でもあります。

 

四神足法は間脳を制御する技術

間脳は自律神経の中枢を担っています。交感神経も、副交感神経も間脳から出発して、延髄を通り全身の末梢神経へと伸びています。

自律神経とは文字通り、自律して動く神経で、心臓や肺臓、胃腸などのすべての臓器を支配しています。ところで、呼吸だけは、自律神経によって働きながら、唯一、横隔膜と肋膜によってある程度自由に制御することが可能です。

呼吸中枢は延髄にありますが、交感神経、副交感神経ともに延髄を通って間脳に通じています。この呼吸を意図的に操作することで、私たちは、間脳にアプローチすることができるのです。

呼吸法により、延髄で結ばれた間脳と全身の神経が一体となり、徐々に覚醒していきます。2,500年も前、この呼吸の秘密に気付いた人間がいました。それが釈尊です。

釈尊の言葉を残した阿含経では安那般那相応やパーリ聖典の入出息念経にみるとおり、呼吸法を中心とした教説として独立した内容を持っています。

また、釈尊がいかに呼吸法を重視したかということも、これらの経典にははっきりと記されています。またこの呼吸法によって得られる効果というものは絶大で、パーリ聖典によれば、いわゆる非想非非想所までの禅定や、四念処をマスターし、随眠(潜在的に存在する貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の六大根本煩悩)を永断し、諸漏を尽くすとあります。

禅定と四念処をマスターとありますが、この禅定と四念処はちまたに紹介されているような観念的な気付きの瞑想法にとどまらず、以下のような絶大な果報があるとされています。

 

『沙門果経』
パーリ語経典長部の『沙門果経』においては、釈迦がマガタ国王に仏教の沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)の果報を問われ、まず戒律順守によって得られる果報、次に止行(禅定、四禅)によって得られる果報を次々と述べた後に、その先の観行(四念住(四念処))によって得られる果報を、以下のように述べている[2]。

(四禅の次に)「自身の身体が、元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常的でない衰退・消耗・分解・崩壊するものであり、意識もその身体に依存している」と悟れる (= 「身念住」(身念処))
(その次に)「思考で成り立つ身体(意生身)を生み出す」ことができる
(その次に)「様々な神通(超能力)を体験する」ことができる (以下、神足通)
「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
梵天の世界にも到達できる」
(その次に)「神のような耳(天耳通)を獲得する」ことができる
「神と人間の声を、遠近問わず聞くことができる」
(その次に)「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)を獲得する」ことができる
「情欲に満ちた心であるか否かを知ることができる」
「憎しみをいだいた心であるか否かを知ることができる」
「迷いのある心であるか否かを知ることができる」
「集中した心であるか否かを知ることができる」
「寛大な心であるか否かを知ることができる」
「平凡な心であるか否かを知ることができる」
「安定した心であるか否かを知ることができる」
「解脱した心であるか否かを知ることができる」
(その次に)「自身の過去の生存の境涯を想起する知(宿住通(宿命通))を獲得する」ことができる
「1つ、2つ…10…100…1000…10000の過去生を想起できる」
「それも、幾多の宇宙の生成(成刧)、壊滅(壊刧)を通して想起できる」
「それも、具体的・詳細な映像・内容と共に想起できる」
(その次に)「生命あるものの死と生に関する知(死生通(天眼通))を獲得する」ことができる
「生命あるものがその行為(業)に応じて、優劣、美醜、幸不幸なものになることを知ることができる」
「生命あるものが(身口意の)業の善悪により、善趣・天界や悪趣・地獄に生まれ変わることを知ることができる」
(その次に)「汚れの滅尽に関する知(漏尽通)を獲得する」ことができる
「苦しみ(汚れ)、苦しみ(汚れ)の原因、苦しみ(汚れ)の消滅、苦しみ(汚れ)の消滅への道(以上、四聖諦)を、ありのままに知ることができる」
「欲望・生存・無知の苦しみ(汚れ)から解放され、解脱が成され、再生の遮断、修行の完遂を、知ることができる」出典 六神通 -Wikipedia

また、漢訳経典にも無量種の神通力を得ようと欲するならば、この呼吸法を実践せよととかれています。

この呼吸法が四神足法と深い関係があることは言うまでもありません。もとより、このブッダの説いた呼吸法が、一種の健康法や、観念的な気付きの域にとどまるはずがありません。なぜならそれは大脳を改造し、人間をして、人間を超え、『沙門果経』にあるように、人にカルマを断つ力を与えるからです。

しかしながら、このブッダの説かれた安那般那念の具体的な方法は経典からではつまびらかにされていないのです。ただ、さまざまな種類の呼吸法が存在すると説かれているのみです。おそらく、言葉のみでは伝えきれない高度な技法であったためでしょう。

しかし、阿含経やパーリから、その断片を伺うことはできます。また釈尊の禅定から色濃く影響を受けたと思われる、ヨーガスートラや、仙道も参考にすることができます。

阿含宗開祖桐山靖雄師は、さまざまな実践的体験をもとに、仏陀の呼吸法から、四神足法までの成仏法を完全に復元し、ご著書『仏陀の法』で解き明かしています。

詳細は桐山靖雄師の上記のご著書をぜひご一読願いたいと思います。

教えの限界を突破する四神足法

ブッダは思想家としては、縁起、四諦、八正道の教えを説きました。けれども、これらの思想をどんなに理解しても、人間の心からは、貪瞋痴はなくなりません。大脳辺縁系に根ずく動物時代の名残をそのままにして、どんなに聖典を聞かせても、返って、自己抑圧、自己否定につながりかねないのです。

言葉の限界です。しかし、仏陀は貪瞋痴を消滅させる方法、成仏法という技法を残しました。これは教えではなく、技術なので、自ら実践するしかありません。それを七科三十七道品といいます。

その中心になるのが、四神足法であります。

もとより貪瞋痴は本を辿れば生命活動に由来し生命本能そのものでも有ります。

仏陀の成仏法は

大脳皮質、大脳辺縁系をこえて、直接間脳にアプローチして、始原の生命力をも制御する技術と言えます。

これは桐山靖雄師が『変身の原理』などで、40年以上前からしばしば説かれていたことでした。

するとブッダ、世尊が、経典で間脳を制御するなどということは聞いたことがないと違和感を覚える方もおられるかもしれません。

では、その証拠を経典をからご紹介します。

ブッダ最後の旅、中村元訳から

アー ナンダよ。いかなる人であろうとち、四つの不思議な霊力(四神足)を修し、大いに修し、(軛を結びつけた)車のように修し、家の礎のようにしっかりと堅固にし、実行し、完全に積み重ね、みごとになしとげた人は、もしも望むならば、寿命のある限この世に留まるであろう p.66

ブッダは、四神足によって、生命力を制御する力をだれでもが持てると断言し、望むならば、だれもが寿命をコントロールできるであろうと説いています。

この寿命のある限りの箇所ですが、実際には「kappaṃ vā tiṭṭheyya」

直訳しますと

一刧でも存続できる

一劫とは宇宙の存続時間にも喩えられる無限に等しい時間です。

この部分を一部の仏教学者は『神格化』の一言で片付けます。つまり四神足法は一種の健康法だと考えているのです。

しかし霊的存在をも含めれば一劫は不可能では有りません。

次のくだりでは仏陀が自ら生命の素因を捨てたとあります。

『悪しき者よ。お前は安心していなさい。修行を完成した方がお亡くなりになるのは、遠くは
ないだろう。これから三カ月たってのちに、修行を完成した方は亡くなるであろう』と。
アーナンダよ。そうしていま、チャーパーラ霊樹のもとにおいて、今日、修行を完成した方
は、念じ、よく気をつけて、寿命の素因(いのちのもと)を捨て去ったのである」と。

やはりここでも仏陀が生命力を念じよく気をつけて捨て去ったとあり、自ら生命維持の為の素因を捨てたと明記されています。

もっともこれも神格化と言われるのでしょうが。

さて生命維持の機構は主に間脳が担当しています。生命活動の中枢が間脳にある以上、仏陀は明らかにこの部位にアプローチできたと考えることができます。例えば

視床下部(ししょうかぶ)は、内臓の働きや内分泌の働きを制御し、生命現象をつかさどる自律神経系の交感神経・副交感神経機能および内分泌機能を全体として総合的に調整しています。
体温調節、抗利尿ホルモン、血圧、心拍数、摂食行動や飲水行動、性行動、睡眠、子宮筋収縮、乳腺分泌などの本能行動、怒りや不安などの情動行動(大脳皮質・辺縁系皮質)の調節、自律神経系をコントロールする中枢の役割の他、内分泌(下垂体ホルモンの調節)の中枢も担っています。
(呼吸運動や血管運動などの自律機能は、中脳・橋・延髄で調節される)

出典
https://www.akira3132.info/diencephalon.html

貪瞋痴を制御し生命活動さえも制御する技法を仏陀がもっていたと考え無ければ、仏陀の教えは文字通り絵空事になってしまうでしょう。また実際にそうした技法が実在するならば、必ずそれは間脳へのアプローチになるはずです。

 

四神足法と間脳

阿含宗開祖である、桐山靖雄師は、たびたびご著書のなかで、大脳の働きを自在にコントロールする技術が阿含経の成仏法である四神足法のなかにあったと指摘されています。

もちろん、阿含経には大脳にかんする記述はありません。そもそも大脳という名称と定義は近代科学の産物ですから、あるはずもないのです。

ではどうして、阿含経と大脳を結びつけるのかといいますと、阿含経をひもといていくと、どうしても大脳の機能と、その開発に関わってくるからなのです。

たとえば、仏教でいう貪瞋痴の三毒、この三毒が全ての不幸の原因だから、これをなくしなさいという教えがありますが、その教えを聞いて、納得しても、実際になくすことができる人がいるでしょうか。

貪瞋痴というのは、野生本能に由来するものですから、なかなか消せません。これを消すか、制御しようと思ったら、動物脳由来の大脳辺縁系を自在に制御しなければなりません。

だから、大脳辺縁系の手綱を握るのが新皮質脳の役割だと考えるのも早計です。

いうまでもなく、新皮質脳をつかって阿含経百万遍読誦したり、戒律でがんじがらめに縛っても、大脳辺縁系はそもそもがワニやウマの脳構造に近いものですから、手足を鎖でつないで、陋屋に隔離するようなものであります。 

では、どうやって阿含経に説かれる成仏法がその課題に向き合うのか。その鍵🔑は、四神足法と、間脳にあります。

では四神足法とはなにか。Wikipediaを参照してみます。

四神足(しじんそく、巴: cattāro iddhipādā[1], 梵: catvāra ṛddhipādā[2])とは、仏教における「三十七道品」の中の1つ[2]。『倶舎論記』においては神通力を起こす基礎となる4つの三昧。『アビダンマッタサンガハ』(摂阿毘達磨義論)においては禅(jhāna)、道(magga)、果(phala)を得るための基礎(iddhipādā)[1]。「四如意足」(しにょいそく)[注 1]とも[2]。


倶舎論記における四神足
欲三摩地断行成就神足(梵: Chanda-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3][4]、よくさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 意欲によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
勤三摩地断行成就神足(梵: Vīrya-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、ごんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 精進によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
心三摩地断行成就神足(梵: Citta-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、しんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 心によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
観三摩地断行成就神足(梵: Mīmāṃsā-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、かんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 観によって様々な神通力を起こす三昧[2]。


アビダンマッタサンガハにおける四神足
欲神足 (巴: chandiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、意欲という基礎[1]。
勤神足 (巴: viriyiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、精進という基礎[1]。
心神足 (巴: cittiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための(二十一種の善心である)心という基礎[1]。
観神足 (巴: vīmaṃsiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、観という基礎[1]。

 

中村元における四神足
欲神足 - すぐれた瞑想を得ようと願うこと[5]。
勤神足 - すぐれた瞑想を得ようと努力すること[5]。
心神足 - 心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること[5]。
観神足 - 智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること[5]。

 

大脳、とりわけ間脳を自在にコントロールする技術にしては、上記の言葉の羅列に拍子抜けしますが、なにやら神秘的な力を起こす基礎であることは間違いないようです。

しかしながら四神足と間脳を結びつける論拠は何でしょうか?

いくつかの証拠を挙げることができます。

 

 

 

 

 

 

 

ブッダの成仏法と大脳

1983年、世界的に著名な科学ジャーナリスト、アーサーケストラーはこの本のなかで、『驚くばかりの人類の技術的偉業。そしてそれに劣らぬ社会運営の無能ぶり。この落差こそ、人類の病のいちじるしい特徴出ある。』とし、その原因を脳の構造上の欠陥を指摘します。脳の構造上の欠陥とはなにか? アーサーケストラーは言う。

「爬虫類型」の脳と「古代哺乳類型」の脳は、ともにいわゆる辺縁系を構成しているが、それは新皮質という人類特有の思考の帽子〉に対し、単純に〈古い脳〉とも表現できる。さて、人間の脳の中核にあって、本能、激情、生物的衝動をコントロールしているこの古い脳構造がほとんど進化の手の影響を受けていないのに対し、ヒト科の新皮質は、過去五〇万年に、進化史上例を見ない爆発的スピードで発達をとげた。実際、解剖学者のなかには、その急成長ぶりを腫瘍の成長にたとえるものさえいる。
洪積世後期におこったこの脳の爆発は、今日人口爆発や情報爆発などですっかり有名になった指数関数の曲線形態をたどったよ う だ (さまざまな分野、領域での歴史的加速現象がこうした曲線で表わされるのも、単なる表面的な類似ではないかもしれない)。しかし、爆発的成長から調和のとれた結果は生まれない。急速に発達していく思考の帽子は人間に論理的な力を与えはしたが、情緒専門の古い脳構造と適切に統合、調整されることなく、先例のないスピードで古い脳の上に覆いかぶさっていった。古い構造の中脳と新皮質をつなぐ神経径路は、どうみても不十分だ。かくして脳の爆発的成長は、古い脳と新しい脳、情緒と知性、信念と理性とが相剋する精神的にアンバランスな種を誕生させた。一方で青白き合理的、論理的思考がいまにも切れそうな細糸にぶらさがり、一方で感情に縛られた不合理な信念が、過去と今日の大虐殺の歴史のなかに狂気となってくっきりと姿を映している。

1971年、阿含宗開祖桐山靖雄師は、すでに『変身の原理』のなかで、アーサーケストラーとおなじ課題に向き合い、それを解決する方法を提案しています。

f:id:zaike:20210702094741p:plain

師は、大脳新皮質の代表である、前頭連合野の働き、大脳辺縁系の代表である海場の働きを深く考察、検証しつつ、結論として次のように述べている。

深い層の奥にある旧皮質、古皮質にぞくする心を自由自在にコントロールして、理性知性とむすびつけることもすれば、きりはなすこともし、あるいはそれ自身単独で一つの方向に向けることもできる。そういう独自な方法を開発し完成していたのである。大随求法がそれである。わたしが、さきに、密教は、フロイト、パブロフをとうに越えていたといったのは、ここのことを言ったのである。結論を言おう。ホトケとはいったいなにか?p.323

ホトケとは、生理学的にいうならば、大脳辺縁系の深い層の心と、新皮質系の理性知性の心とを、自由自在に操作する技法を身につけたヒトである。それがホトケという存在であり、密教とはその技法をつたえるシステムなのであった。p.323

※『変身の原理』 この著書はほかにも、大脳生理学、深層心理学、古代の密教にかんして、さまざまな考察を重ね、詳しく論じているため、誤解を避けるためにもぜひ幾度も目を通していただきたい本です。

※前頭連合野 この脳領域は複雑な認知行動の計画、人格の発現、適切な社会的行動の調節に関わっているとされている。この脳領域の基本的な活動は、自身の内的ゴールに従って、考えや行動を編成することにあると考えられる。Wikipedia

※海馬(かいば、英: hippocampus)は、大脳辺縁系の一部である、海馬体の一部。 特徴的な層構造を持ち、脳の記憶や空間学習能力に関わる脳の器官。 その他、虚血に対して非常に脆弱であることや、アルツハイマー病における最初の病変部位としても知られており、最も研究の進んだ脳部位である。Wikipedia

密教 密教は、最初、ひとつの手法であった。けっして、最初から、密教という一つの宗教があったわけではない。ゴータマ・ブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラモンの時代から、インドには、人に超能力をあたえる一つの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい練磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでつくりあげていた。p.65『変身の原理』

 

 

仏教の世界観と大脳の構造

仏教の世界観は三界といわれる欲界、色界、無色界の三層構造になっています。

                  

起世經卷第八

於三界中。有三十八種衆生種類。何等名爲三十八種。諸比丘。

欲界中有十二種。

色界中有二十二種。

無色界中復有四種。

諸比丘。何者欲界十二種類。謂地獄。畜生。餓鬼。人。阿修羅。四天王天。三十三天。


何者色界二十二種。謂梵身天。梵輔天。梵衆天。大梵天。光天。少光天。無量光天。光音天。淨天。少淨天。無量淨天。遍淨天。廣天。少廣天。無量廣天。廣果天。無想天。無煩天。無惱天。善見天。善現天。阿迦膩吒天等。此等名爲二十二種。


無色界中。有四種者。謂空無邊天。識無邊天。無所有天。非想非非想天

 

ざっと欲界には12種、色界には22種、無色界には4種ありとし、合わせて38種の生命存在を説くのであります。

 

この三界は瞑想の深まりにおいて、だれもが認識できる世界として説かれています。つまり、下は地獄から上は非想非非想天まで、禅定で体験できる世界です。とすれば、大脳もまた、三界に対応した部位があるはずです。つまり、ブッダの説いた禅定の世界を大脳に対応して比較検討するということは大変興味深い話ではないでしょうか。

阿含宗開祖である桐山靖雄師は悟りを大脳生理学の上からも検証考察をかさねた指導者です。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51CZ2SJZ55L._SX351_BO1,204,203,200_.jpg

 この中で師は、大乗経典は新皮質脳の経典、阿含経は間脳開発の経典とし、詳細を説いています。p.101

また、瞑想は大脳辺縁系と新皮質脳しか動かすことができず、もろもろの因縁による人間の繫縛から解脱するためには、間脳をはたらかす瞑想が必要であると説きます。p.176

そしてきよめられた聖者・須陀洹のページp.223では

 

 人類はここ数千年間、新皮質脳による世界をつくりあげてきた。霊的世界を抹殺して しまい、霊的世界の存在を認識する間脳を閉鎖してしまった。現象世界と霊的世界が共存している実相世界をただしく認識させるためには、新皮質脳(と大脳辺縁系)を一時閉鎖して、霊的世界を認識できる間脳を動かす訓練をしなければならないのである。まちがいをおかしている心をまちがいをおかしている心で変えさせようとしてきたのである。これは徒労であった。新皮質脳をつかって新皮質脳を変えさせようとしていたのである。

と説いています。

これを三界にはてはめますと、欲界は新皮質脳、大脳辺縁系がつくりだす世界観と対応するかもしれません。さらに色界、無色界という禅定の境地がありますが、ブッダは無色界の最高所である非想非非想天まで上り詰めても、因縁解脱はできないのだとさとり、瞑想の師であったウッダカ・ラーマプッタのもとを去ります。

おそらくウッダカ・ラーマプッタは、新皮質脳、大脳辺縁系を完全に制御できた瞑想の達人だったのでしょう。しかし、どうやら間脳を開発し、大脳を制御するまでの境地には達していなかったのです。そのため禅定から醒めてしまえば煩悩も発生して、消えてなくなる訳ではなかったと聞きます。

ここで、霊的世界について一言触れておかなければなりません。開祖の説く霊的世界とは、間脳を働かせ、人間を業によって縛る因縁の繫縛から自由になるための世界であり、ブッダのとく、聖者の第一段階、きよめられた聖者・須陀洹がまのあたりに認識する世界であるということです。

 

※四向四果 とは、原始仏教や部派仏教における修行の階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果(音訳で須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢)のこと。四双八輩ともいう。果とは、到達した境地のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。 ウィキペディア

 

すると、三界のなかに聖者・須陀洹はいないのかというと、そうではありません。これも経典で解説されており、須陀洹から斯陀含までは欲界に属します。阿那含は色界、無色界で、阿羅漢はもはや三界に依存しない涅槃に入ります。

 

やっぱり大脳辺縁系大脳新皮質の影響下にはいるのです。しかし、凡夫とちがうのは、聖者は、欲界に存在はするが、間脳が働き始めるとだんだんと欲界の影響から自由になっていきます。

 

いま仏教徒がなすべきこと。

149 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし         生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。
       上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この         (慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。中村元

有名なお経スッタニパータの『慈しみ』の一節です。ブッダはこのお経で慈しみによる世界平和を説いています。

しかし今や世界のあちこちで、紛争はやまず、独裁主義が息を吹き返し、一層不穏な空気が世界を覆うようになりました。

世界の仏教徒は一層奮起して全世界に対して慈しみの実践をすべきです。

しかし、実践する仏教徒は少ないです。なぜなら、『無量の慈しみ』の心をどのように実践したらよいのか。『無量の慈しみ』という心の力がどれほどの力か、具体的に見当もつかないからです。 

勿論、これぐらいのことは、どんな思想界のリーダーでも言えそうに感じます。

しかしながらブッダの発する言葉は違います。

まず第一にいっさいの生きとし生けるものとは、生物だけでなく、霊的世界の有情もはいるということです。仏教で説く一切の世界とは、三界、すなわち欲界、色界、無色界のことです。

これは禅定の深まりによって体験できる世界で、深い意識のなかで、その認識が全宇宙にまで広がる体験です。

つまりブッダは、現象界の上に肉体を超えた数限りない霊的世界の有情に対しても呼びかけています。ブッダの説く『無量の慈しみ』とは誇張でも譬えでもなく、実際に無量の生命に対する無量の慈しみにほかなりません。

なぜ霊的世界にまで呼び掛けるのか。それは、三界の大部分はじつは霊的存在によって占められているからです。とくに人間は死んで終わりではなく、霊的存在として縁起の法則によって存続していきます。いや、あらゆる生物が六道輪廻をするのですから、すべての生物はじつは、霊的存在だといっても過言ではないのです。

その霊的存在としての人類が、度重なる戦乱や、侵略、理不尽な弾圧を繰り返し、怒りや、貪り、愚かさ、悲しみや恨みつらみをもったままで、どんどんと増え続けたら世界はどうなるでしょうか。

まえに無数の鬼神(霊的存在たち)がこの世界に満ちており、かれらは、個人にも家庭にも国にも様々な影響を与えているというブッダの教えをご紹介しました。

いつ核戦争がおこっても不思議ではない、現在の社会は、そのまま霊的世界の不浄を示しています。

下記ブログ参照 

zaike.hatenadiary.com  

つまり霊的不浄とは、霊的存在の怒りや、懊悩の塊の集積です。これを浄めることができるのは、ブッダの成仏力しかありません。

なぜなら、ブッダのことばは、実際に三界を見据え、三界に対して、やすむことなく仏法を説き、三界にいきる有情の幸せ安穏を祈り、無量の慈しみを注ぎ続けています。そしてその祈りは実現する力をもっています。

なぜなら禅定の深まりにおいて、発せられた言葉には、じっさいに全生命に対する救済力があるからです。 

では、ブッダがひとり、宇宙大にまで広がった意識によって、かってに人類が救えるのかというとそうはいきません。いかにブッダが全世界にむかって法を説いても、人類のひとりひとりが違う方向を向いていたのでは、その祈りは届かないのは当たり前のことです。 

わたしたちは、ブッダの祈りに対して、祈りをもってこたえる必要があります。

またそのためにブッダの祈りの原点である、ブッダが説いた成仏法を学び、実践していくことが必要です。

阿含宗では、阿含経にとかれた成仏法の実践をするとともに、生きた人間だけでなく、無数の霊的存在にも祈りを向けたブッダにならい、世界各地で戦争や災害で不幸な死に方をされた御霊に対して、ブッダの成仏力が届くよう、ブッダに祈りをささげています。そのために、より多くの人の祈りを集めています。

まずは七月十三、十四、十五日の盂蘭盆万燈会です。

こちらはご先祖供養が主たるものの、世界各地で紛争や疫病で亡くなった方々のご供養も致します。

www.agon.org

ご縁があれば、ぜひご参拝ください。