阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

四神足法と間脳

阿含宗開祖である、桐山靖雄師は、たびたびご著書のなかで、大脳の働きを自在にコントロールする技術が阿含経の成仏法である四神足法のなかにあったと指摘されています。

もちろん、阿含経には大脳にかんする記述はありません。そもそも大脳という名称と定義は近代科学の産物ですから、あるはずもないのです。

ではどうして、阿含経と大脳を結びつけるのかといいますと、阿含経をひもといていくと、どうしても大脳の機能と、その開発に関わってくるからなのです。

たとえば、仏教でいう貪瞋痴の三毒、この三毒が全ての不幸の原因だから、これをなくしなさいという教えがありますが、その教えを聞いて、納得しても、実際になくすことができる人がいるでしょうか。

貪瞋痴というのは、野生本能に由来するものですから、なかなか消せません。これを消すか、制御しようと思ったら、動物脳由来の大脳辺縁系を自在に制御しなければなりません。

だから、大脳辺縁系の手綱を握るのが新皮質脳の役割だと考えるのも早計です。

いうまでもなく、新皮質脳をつかって阿含経百万遍読誦したり、戒律でがんじがらめに縛っても、大脳辺縁系はそもそもがワニやウマの脳構造に近いものですから、手足を鎖でつないで、陋屋に隔離するようなものであります。 

では、どうやって阿含経に説かれる成仏法がその課題に向き合うのか。その鍵🔑は、四神足法と、間脳にあります。

では四神足法とはなにか。Wikipediaを参照してみます。

四神足(しじんそく、巴: cattāro iddhipādā[1], 梵: catvāra ṛddhipādā[2])とは、仏教における「三十七道品」の中の1つ[2]。『倶舎論記』においては神通力を起こす基礎となる4つの三昧。『アビダンマッタサンガハ』(摂阿毘達磨義論)においては禅(jhāna)、道(magga)、果(phala)を得るための基礎(iddhipādā)[1]。「四如意足」(しにょいそく)[注 1]とも[2]。


倶舎論記における四神足
欲三摩地断行成就神足(梵: Chanda-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3][4]、よくさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 意欲によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
勤三摩地断行成就神足(梵: Vīrya-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、ごんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 精進によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
心三摩地断行成就神足(梵: Citta-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、しんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 心によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
観三摩地断行成就神足(梵: Mīmāṃsā-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、かんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 観によって様々な神通力を起こす三昧[2]。


アビダンマッタサンガハにおける四神足
欲神足 (巴: chandiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、意欲という基礎[1]。
勤神足 (巴: viriyiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、精進という基礎[1]。
心神足 (巴: cittiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための(二十一種の善心である)心という基礎[1]。
観神足 (巴: vīmaṃsiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、観という基礎[1]。

 

中村元における四神足
欲神足 - すぐれた瞑想を得ようと願うこと[5]。
勤神足 - すぐれた瞑想を得ようと努力すること[5]。
心神足 - 心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること[5]。
観神足 - 智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること[5]。

 

大脳、とりわけ間脳を自在にコントロールする技術にしては、上記の言葉の羅列に拍子抜けしますが、なにやら神秘的な力を起こす基礎であることは間違いないようです。

しかしながら四神足と間脳を結びつける論拠は何でしょうか?

いくつかの証拠を挙げることができます。