小説 あの世とこの世の中間地帯
阿含経に説かれる霊的世界の話は山ほどありますが、あまり論文調でまとめましても、面白くないと思いまして、阿含経をもとに、愚輩がよけいな脚色をして阿含経の霊的世界を一筆したためたものです。
主人公のダンは二十歳代の若者ですが、お話はこのダン青年が、ある富豪の道楽につきあって、死後の世界を忠実に仮想現実化したとされる天眼マシーンという怪しげなカプセルに入るところからはじまります。それでははじまりはじまり。。。
炎陽に焦げつくような都会のアスファルトを離れ、ダンはいつものように、ひんやりとした天眼マシーンに横たわった。これからあの世のモニタリングを始めることになったのだ。
女性の自動音声が柔らかに響く。
「地球の直径が一万二千七百キロ、その四十四倍の標高をもつ須弥山山頂に三十三天の宮殿は位置しております。これは地球の大きさを三十センチと致しますと、天界の宮殿は、そこから約十三メートル上空という計算となります」
つまり、ご近所のおばさんが育てているパンジーのプランターと、四階建てのマンションくらいの差があるのだ。
「その須弥山中腹には四天王と呼ばれる神々の居城があります。今回は、四天王親睦会と題したプログラム編成になっております。それでは古代インドの墓場からスタート致します」
なんで墓場から? そう思う間もなく、ダンの意識は死のバーチャル世界へと沈んでいった。四天王の居城に辿り着くには、四天王の配下である夜叉たちの徘徊する墓場を通らなければならない。墓場は、人間世界への執着を残す夜叉たちの棲家であり、この世とあの世の中間的領域なのだ。
墓場といっても古代インドの屍体捨て場である。葬儀には数種あり、荼毘に付し、霊園の塚や祠堂に埋葬する火葬もあるが、水葬、土葬、野葬がある。野葬は一定の場所に野ざらしにして、禿鷹や豺狼の餌とする。
また屍肉を漁るのは獣ばかりではない。日が沈み、夕闇が迫ると異形の夜叉たちが野葬の腐肉を求めて集まってくる。夜叉というのは、鬼霊とも漢訳されるが、さまざまな死霊や悪霊、自然霊を指す。
ダンが迷い込んだのは、ちょうどそのような夕暮れ時の墓地であった。地面は大雨の後のせいか、ずぶずぶとぬかるんで、泥に足を掬われそうになる。木の根っこなのか、棒きれなのか、人骨なのか見分けのつかない塊を足場にして、ダンはゆっくりとあたりの様子を窺った。
空を低く鈍色に覆う雲と、ねじ曲がった低木がまばらに生えるばかりの土地との間に、幽かに灯りのもれる小屋をみつけた。ダンはいつもながら棄権したくなったが、モニター用に設定されたプログラムが完了するまでなすすべもなく、おぼつかない足取りでゆっくりと小屋めがけて歩き出した。足は泥にもつれ、思うように前に進めない。あたりは獣たちが喰い散らかした四肢、夥しい蛆にびっしりと覆われた腐爛死体、堆積した白骨などが捨て置かれていた。
えいっ、えいっ、という甲高い掛け声が聞こえてきた。小屋に近づくにつれ、その掛け声は大きくなっていく。どうにか小屋の前までたどり着くと、ダンは明かりの洩れる隙間からなかを窺った。
黒くずんぐりした人影ごしに、赫々と灯るオイルランプが見えた。黒い影はこちらを背に丸太に座り込み、鉈を振り下ろしていた。鈍い音とともに脚や腕が大きな俎板から転がり出る。それを蓬髪の童女が親指を咥えて眺めていた。
「これっ、危ない、危ない」
黒い影が怒鳴った。
「だって、お腹すいたもーん。早くしてよー」
「夕飯はさっき食べたじゃないか。意地汚い子だよ」
黒い影は母親なのだろう。
「あっ。誰かいる」
ダンはめざとい娘にみつかってしまった。母親が振り返ってダンを睨み付けた。
「なんの用だい?」
「はい。四天王にお参りに」
「こんな時間にかい?」
小肥りの女は、無言で首を揺らすと板戸を開いた。チョコレート色の丸い顔に黒い血糊がこびりついている。
「もの好きな輩が多いよ」
女はそっけなくいった。
小屋の中は生臭い死臭で充満していた。切断された遺体が散乱し、足のやり場もない。女はそれを麻袋に詰め込みだした。死体はもがくこともなく静物のように大人しくしている。
「そんなに珍しいかい?」
「これどうするんですか?」
「狗どもが食べるのさ」
娘も手際よく手足を拾っては袋に詰めている。
パーリ仏典テーラガーター(長老の詩)にいう。
黒い大女が鴉のように身を屈め
ひとつの腿を切断したら、他方の腿も切断する
ひとつの腕を切断したら、他方の腕も切断する
それらを鉢のように積み上げて座っている
この小肥りの女も、納屍堂と呼ばれる小屋で働く死体処理人なのだ。
「さあ、行こう。あんたも手伝っておくれ」
麻袋のひとつをダンも受け持たされた。
墓地は死の世界ではない。何千、何万というコオロギやヒキガエル、カラスやミミズクなどが喧しく啼いていた。袋の死体は近くの丘の上まで運び、ばらまくだけでよい。あっというまに飢えた豺狼たちが平らげてしまう。
娘の目当ては、鴉の喰い残したお供物の果物、お菓子や麦焦がしの団子だった。昼間、火葬の煙の上がるのを見定めておき、人気の途絶えた大禍時にお下がりを物色するのだ。娘は戦利品を腕一杯に抱え、意気揚々と先導する。
やにわに娘は駆け出した。
「おにいちゃーん!」
甘えた声でだれかに声を掛けている。
小さな土饅頭の横に、若い男が胡坐をかいていた。娘は彼に調達したばかりのお下がりをあらかたあげてしまった。
「いつもありがとう」
若い男が礼をいうと、少女ははにかんで「いいの」
小肥りの女はぶっきらぼうに声を投げた。
「あんた、もう帰りなよ。そろそろ十日にもなるよ」
「いや、いいんです。ぼくの暮らすところはここしかないんです」
青年は傍らの土饅頭を愛おしそうにみつめた。
「お釈迦様もいうだろう。死んだ者は帰らないって」
彼は若い妻に先立たれ、彼女を慕うあまり墓地で暮らすようになった。娘は痩せ衰えていく若い男を見かね、お下がりをあげていたのだった。
「おばさん、ぼくはね、ここにいると妻がそばにいるような気がして、とても死んだとは思えない」
女は腕組みをして、気の毒な男を冷ややかに見下ろした。
「骨に惚れてどうする?」
しばらく墓地の奥へと歩いていくと、煌々と揺らめく灯りが見えてきた。サークル状にオイルランプを並べ、その中心で火葬灰にまみれた丸裸の男が蓮華座を組んでいた。手には髑髏の杯を持ち、何かを飲み干している。
男と目が合うと、真っ赤に濡れた唇がニタリと嗤った。古代インドの墓地は、さまざまな隠者たちのたまり場なのだ。財産を放棄し、世俗から離れ、火葬灰にまみれ、木や獣の皮を纏う。仏教の出家者も、しばしば墓地を修行場とした。
テーラガーター(長老の詩)に曰く。
わたしは墓場に女が棄てられ
躰中を蠢く蛆虫に喰い尽くされているのをみた
愚者たちの好物であった肉体をみよ
病に侵され、不浄と腐臭を垂れ流す集まりを
釈迦時代の出家は、墓地にあって死骸の徐々に朽ちていくさまを観察し、肉体への欲求を抑制しようとしたのだ。また墓地では糞掃衣(ふんぞうえ)を調達する。腐敗の終わった死体から衣を剥ぎ取り、洗ってから染め直し、小片に裁断した布を継ぎ合わせて袈裟としたのだ。
ある比丘は腐りかけの死体から無理に衣服をはぎ取って、僧房に持ち帰った。翌朝、死骸が僧房の戸口に頽れていたという。生腐りの屍が比丘の後を追いかけてきたというのだ。
この事件のあと完全に腐った死体からのみ衣を得ることという律が制定された。
闇の迫る丘の上で、死体処理の女は切断された腕や脚をばらまいた。はやくも山狗たちが集まりだした。初めにリーダー格が内臓をガツガツ喰いだす。つづいて他の狗たちも低い唸り声をあげながら争って喰らいつく。
女がぼそりといった。「もう、そろそろ帰ったほうがよさそうだ」
あたりを吹きぬける風の勢いが増してきた。
女はダンにむかっていった。
「これからは夜叉たちの時間だ。四天王に参拝に行くんなら奴らに頼んでみな」
女は娘の手を曳いて歩き出した。
「おじちゃん、さよならー」
少女はダンに手を振った。
(おじちゃん? しかも奴らって誰?)
女たちの背中ははやばやと夕闇の中に吸い込まれていった。
まもなく、ずるずると何かを引きずるような音が近づいてきた。鴉たちが一斉に林から飛び立つ。巨大な黒い気配がダンに迫ってきた。殺気立つ無数の息遣いがダンの周囲を埋め尽くし、徐々にその範囲を狭めていた。
頭上に雷鳴が起こり、閃光が走ると、低く垂れ込めた雲が蠢く臓物のように浮き彫りになった。同時にダンのまわりに集まってきた黒い影の塊も一瞬露わになった。
猪や魚の口を持つもの、虎や熊、象、髑髏の頭を持つもの、眼がひとつのもの、顔面が半分ないもの、顔がたくさんあるものたちが、屍肉を求めて闇夜の墓地や樹林に戯れ、跳梁する。あるものは三叉の鉾を引きずり、叫びながらこん棒や鉈を振りまわして威嚇する。仏伝諸経典で、夜叉たちは異形の群れとして描かれる。
とぐろを巻く雲塊に稲妻が走るたび、邪悪な気配は濃くなっていった。彼らは一斉になにか呟いていた。耳を澄ますと、出ていけ、出ていけと聞こえる。仕方なく手探りでそこから出ようとすると、今度は入れ、入れと聞こえる。そこで引き下がると、再び出ていけ、出ていけと聞こえる。どうすることもできない。真っ暗闇で立ち往生したダンは地べたに座り込んだ。腰が抜けたのではなかった。開き直ったのだ。
「お前ら、うぜえんだよ。俺は四天王に会いたいだけなんだ!」
と小胆者ほど、ときにくそ度胸を発揮するものである。
誰かが胴間声を発した。
「まあ。礼儀を知らない殿方ですこと。まず、あたしたちの質問に答えなさい。もし答えられなかったら、お仕置きタイムよ。あなたのおつむは正気を失い、心臓が破裂するでしょう。そしたらガンジス河に沈めてあげる」
ダンを取り囲む夜叉たちは大嗤いした。
――こいつらはどうせバーチャルだろ。でもいつ終わるのかな?
ダンは独語した。
「さあ、質問です。その一。この世で最高の富とはなんでしょう?」
ダンの額からねばっこい汗が滴った。そもそも富という言葉に縁遠い男だから適当な答えが浮かばない。
(金? 株? いやもっと価値のあるものあるよな。超大きな豪邸。いや、そんなもんじゃないな……。そうだ土地だ)
「土地、いや国、大きな国を所有すること。……かな?」
血に飢えた夜叉たちは、赤い眼をらんらんと輝かせて、「ファイナルアンサー?」と畳み掛けた。
忍び嗤いがあちこちから起きた。答えに窮するダンに、すぐにも夜叉たちが跳びかかろうとにじり寄る。闇は殺気に凍りついた。
そのとき、突如、ダンの頭上に朗々とした大音声が響いた。
「この世で、最高の富は信用である!」
夜叉たちの動きが止まった。そしてダンを睨み付けている。稲妻が走り、雷鳴が轟く。夜叉たちは訝しんでいたが、ふたたび質問が始まった。
「では、その二。幸せになるために何をすればよいか?」
「正しい方向に歩め!」
またしても大音声が響く。
「いちばん美味しい味は何か?」
「真実に勝る味はない」
「最高の素敵な生活って?」
「智慧のある生活」
質問と解答の応酬はしばらく続いた。おもしろくないのか、舌打ちして帰ってしまう夜叉たちもいた。
「誰の声だ!」
一人の夜叉がしびれを切らしたように叫んだ。
すると強烈なサーチライトで照射されたようにダンの周囲が白く輝いた。
「私は毘沙門天だ!」
気が付くと、ダンのそばに巌のような体躯の巨漢が立っていた。見上げると瑠璃が象嵌された見事な白銀の鎧で全身を固めている。右手にブッダの教法を込めた多宝塔を持ち、左手に三叉の戟を突いてかるく腰をひねる。顔つきはVシネマも真っ青の強面である。
強烈な光線が辺りを覆い、夜叉たちは眩しそうにうずくまり、睨まれては縮み上がった。彼こそ四天王のひとり、須弥山の北方を支配し、夜叉の軍勢を配下に従える大将軍だ。また釈尊の説法会では警備にあたり、よくその法話を聞いたから多聞天とも呼ばれる。古い聖典スッタニパータにもかれの名が現れる。古代インド神話では布袋様のような福の神であった。
四天王親睦会
ダンは毘沙門天の背に乗り夜空を翔けた。訪れたのは須弥山北側の中腹に突き出た庭園だった。この苑林の中央部には、二百八十キロ四方の広大な池が広がる。その池のほとりに人間向きにあつらえた東屋がある。満天の星空に白金の丸い月がかかり、池には微光を放つ色とりどりの水蓮が咲き乱れていた。すでに人間の武将姿に化身した持国天、増長天、広目天の一行が席についていた。四天王のリーダー格は毘沙門天であり、彼が心中で庭園に行こうと思うだけで、みな側近を引き連れて参集するのだ。
「さあさあ、今宵は無礼講としよう」
毘沙門天が気炎を上げた。
「久々に人間のお客様じゃないか!」
東方を守護する神、赤ら顔の持国天がニンマリと笑った。彼は国を維持する神ともされる。彼の後ろに控える数人の楽神ガンダッバたちが、琵琶や竜笛などで即興のアンサンブルを始めた。
「人間から直接話を聞けるとは珍しい。なんでもいいから、遠慮せずに話にしてくれよ」
南方を守るでっぷりとした増長天が眉間に深い皺を刻んで笑った。彼は穀物の成長をつかさどる神だ。背後のクンバンダと呼ばれる馬頭の自然神たちが一斉に拍手した。甕のような陰嚢が腰布からはみ出ている。
「どうした。さっきからおとなしいじゃないか」
西方の守護にあたる醜怪な藪睨みの持ち主、広目天が眉を顰めた。
「不満でもあるのか?」
すると彼の脇でとぐろを巻いていた数十匹の蟒蛇たちが一斉に鎌首をもたげる。広目天は千里眼を使って世間を観察するという。
「おいおい、あんまり脅かすなよ」と眩しげな眼差しの毘沙門天が間に入る。「まあまあ、呑みなさい」
毘沙門天がお神酒をなみなみとついだ杯を差し出した。
「きみ、どうして我々を探していたのかね?」
「はい。実はぼくは死の世界などというものは信じてなかったのです。ところがバイトであの世のモニターを引き受けることになりまして」
「信じてもいない世界に来たってわけか」
毘沙門天がいうと、一同が薄ら笑いを浮かべた。
「きみたちの世界じゃ、脳が死ねば意識も無になると考えているものが多いと聞くな」と赤ら顔の持国天が杯をあおって、
「脳が死ぬと、あとは朦朧とした意識が残る。だが禅定を行なっていた者は意識を明瞭に保つ。俺たちも人間であったときに、もう少し禅定をしていたらもっと違う存在になっていたのにな」
すると眩しげな眼差しの毘沙門天がいった。
「仏典に、人間は神々よりも勇猛で記憶力に優れ、実務能力に長けている。また修行に集中でき、人間の中からブッダが現れるというな」
「脳のなかで意識は育つ」
肴に箸を伸ばしながら、でっぷりとした増長天がいった。
「残念ながら、ほとんどの人間はそのお宝を眠らせているようだ。もっとも使い方を誤ったらとんでもないことになるがね」
藪睨みの広目天がいった。
四天王は毎月六回ほど地上世界をパトロールすることになっている。仏教ではこれを六斎日と言って、在家信者が八斎戒を守る精進日と定めた。定期的に寺社にお参りし、お坊さんの説法を聞いて内省する。六斎日は新月から満月までの月の前半で八日、十四、十五日と、月の後半の二十三、二十九、三十日を指す。四天王の巡回はある時は配下の夜叉に命じ、ある時は息子たちを使う。また自分たちも見廻りに出る。そして地上の出来事はすべて帝釈天に報告される。
「ところで夜叉ってなんなのですか?」
「ありとあらゆる亡霊、悪霊、自然霊などだ。鬼神とも漢訳されるな。鬼というのは漢語では死霊ということだ。日本でも死んだ人のことを鬼籍に入るという。大きな意味でいうと我々も夜叉だ」
「ぼくたちの世界ではただの空想上の産物ですが」
ダンがそういうと四天王の眦に一瞬ただならぬ険が走った。
しかし毘沙門天はすぐに眩しそうに眼を細め、
「見えてないだけだ。この宇宙には正体不明のダークマターやダークエネルギーといった光学的に観測できない物質があるというじゃないか。観測可能な物質は僅か四パーセントに過ぎないという。同じようにあらゆる人の住居には人間たちには見えない鬼神が満ちていて、空虚なところはどこにもない。すべての通りや路地や十字路、市場や墓、村、土地、川、山などにも満ちている」
「でも、僕たちになにか影響があるんですかね?」
「もちろんだ。鬼神の中には人の邪魔をするものと、人を守護するものがある。どちらの影響を受けるかは、仏の定めた法と十善業が守られているかどうかによる」
「十善業?」
「業とは行いのことだ。行いには三つある。身体による行為、言葉による行為、心による行為だ。この三つの善い行いを十に分類したのが十善業だ」
「へえ……」
「十善業を甘く見るなよ。これが修められたらお前は、望むなら神にもなれるし仏にもなれるのだ」
「ちなみにどんな行為ですか」
「一つ、殺害をしないこと。二つ、盗まない。三つ、不義を働かない。ここまでが身体の行為だ。四つ、嘘偽りがない。五つ、二枚舌を使わない。六つ、誹謗中傷しない。七つ、戯言をやめる。ここまでが言葉による行為。八つ、貪らない。九つ、怒らない。十、誤った考えを捨てる。以上が心の行為だ。ブッダが説く誤った考えとは、人を助けても意味がなく、その報いも福もない。善いことをしても悪いことをしても無意味でその報いもない。この世もあの世もない。父も母もない。ひとの命に意味はない。ブッダも阿羅漢もいないといった考えだ。この十善業が地上で守られなくなると、人々を守護する鬼神の数が減る」
「そんなこと完璧にできる人いるのですか?」
「いない」
「できなきゃ地獄行さ」
赤ら顔の持国天がほくそ笑んだ。
「懺悔しなさい」
とでっぷりとした増長天。
「懺悔だけじゃだめだね――」藪睨みの広目天がいった。
「八〇億回前くらいの宇宙誕生から積んできた罪業の罪滅ぼしをしなきゃ」
毘沙門天は眩しげに微光を放つ蓮池を眺めていたが、やにわにダンのほうに向きなおりいった。
「きみにもアーターナータの護呪を教えとこう」
「アーターナータ?」
ダンが訊き返すと、後ろの夜叉たちが口を開いた。
「閣下の天空に浮かぶ城塞のことだ」
毘沙門天はいう。
「なにしろ夜叉の中にはたちの悪い連中がいて、堅気の人に取り憑いて離れないことがある。こういう連中は殺生や盗みなどの十悪業がなにより大好きなのだ。だから真面目な信者や比丘たちが悪い影響を受けないように、私が世尊にお伝えした護呪があるのだ。いま唱えてみようか」
智慧の眼を持つ光輝なヴィパシン仏に帰依します
一切衆生の為に慈しみ深いシキン仏に帰依します
浄められた苦行者のヴェーッサブ仏に帰依します
魔王の軍隊を打砕いたカクサンダ仏に帰依します
やり遂げた婆羅門コーナーガマナ仏に帰依します
何処に於いても自在なるカッサパ仏に帰依します
一切苦を除く法を示したゴータマ仏に帰依します
………
アーターナータの護呪は釈尊を含める過去七仏への帰依に始まり、四天王の権威と威力を誇示し再び釈尊への礼拝と誓いで終わる。東南アジアの仏教国ではこれをパリッタ(護呪)と言い、実際に今も悪霊祓いの儀礼に使用する。
毘沙門天がいった。
「きみがこの呪文を習得すれば、ごろつきの邪霊に付き纏われるようなことはなくなる。なにしろ仏に帰依しているものに手を出したら、俺たちの国では村八分になったあげく、西瓜のように頭を砕かれるきまりになっているのだ」
毘沙門天の目はいつしか血走っていた。
「だがなかには極悪な凶悪犯がいるもんだ。もしそいつらに出くわしたらこの呪を唱えなさい」
我は汝らを召喚す!
インダ、ソーマ、ヴァルナ、バーラドヴァージャ、パジャーパティ、チャンダナ、カーマセッタ、キンニガンドゥ、ニガンドゥ。
………
マニ、マーニチャラ、ディーガ。そしてセーリッサカよ!
我は威力ある夜叉、大夜叉、軍帥、大軍帥を召喚す。
我が訴えを聴け。
この鬼霊は我らを侵し、悩ませ、害い、いまだ去らず!
「この呪は鬼霊110番みたいなものだ。通報が寄せられたら所轄の四天王軍団が直ちに現場に急行し、凶悪犯どもを一網打尽にする」
アーターナータの護呪は、二段階の悪魔祓いの過程で使用される。まずごろつきの鬼霊を、過去七仏への帰依と権威を持つ夜叉の名とによって抑止しようとする。ちょうど水戸黄門一行が葵の紋を振りかざして、悪代官たちをひれ伏させるのと同じである。しかしそれでも逃げ出したり、手向かったりする輩がいるものだ。そのときは助さん角さんの出番となる。同じように、障りを止めない邪霊は、仏法を守護する最強の軍団に取り締まってもらうのだ。
四天王とその配下は、この呪を毘沙門天から聞くあいだ姿勢を崩すこともなく、眼は炯々とダンを見据えていた。
ダンが訊く。
「十善業、できなくてもパリッタだけで護ってもらえますか?」
四天王たちが噴き出した。
「ワッハハハ! 試してみりゃわかるさ」
※参考経典
パーリ長部経典(アーターナータ経)ほか
阿含経のなかの悪霊退散のはなし
このお経はじつは南方上座部仏教では邪霊を払うために今も唱えられているパリッタ(護呪)です。
伝承によると、ヴェーサーリーという国で疫病が蔓延しました。人々はさまざまな霊障除災の儀式を試みますが、まったく効果がないのです。そこで、ブッダに来てもらおうということになりました。ブッダが一歩その地に踏み出された瞬間、大雨が降ったといいます。そののち、無数の霊的存在に唱えられたのが次の偈頌です。
宝経
222 ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。
そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。
223 それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせずに、かれらを守れ。
224 この世また来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
225 心を統一したサキャムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、ーその理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
226 最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、ひとびとは「[さとりに向って間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この心の安定〉と等しいものはほかに存在しない。このすぐれた宝は理法の(教え)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
227 善人のほめたたえる八輩の人はこれらの四双の人である。かれらは幸せな人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。かれらに施したならば、大いなる果報をもたらす。この勝れた宝はつどいのうちにある。この真理によって幸せであれ。
228 ゴータマ(ブッダ)の教えにもとづいて、堅固な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に没入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝は一つといのうちにある。この真理によって幸せであれ。
229 城門の外に立っ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺がないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えらるべきである、とわれは言う。この勝れた宝はつどいのうちにある。この真理によって幸せであれ。
230 深い智慧ある人(ブッダ)がみごとに説きたもうた諸々の聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとい大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。この勝れた宝はつどい〉のうちにある。この真理によって幸せであれ。
231 自身を実在とみなす見解と、疑いと、外面的な戒律・誓いという三つのことが
らか少しでも存在するならば、かれが知見を成就するとともに、それらは捨てられてしまう。かれは四つの悪い場所かられ、また六つの重罪をつくるものとはなり得ない。このすぐれた宝がつどいのうちに存する。この真理によって幸せであれ。
232 またかれが身体によって、ことばによって、またはこころの中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、かれはそれを隠すことができない。隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。このすぐれた宝がつどいのうちに存する。この真理によって幸せであれ。
233 夏の月の初めの暑さに林の茂みでは枝が花を咲かせたように、それに譬うべき、安らぎに赴く妙なる教えを(目ざめた人、ブッダが)説きたもうた、 ためになる最高のことがらのために。このすぐれた宝が目ざめた人(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
234 勝れたものを知り、勝れたものを与え、勝れたものをもたらす勝れた無上の人が、妙なる教えを説きたもうた。このすぐれた宝が〈目ざめた人〉(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が〈つどい〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
236 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した〈目ざめた人〉(ブッダ)を礼拝しよう。幸せであれ。
237 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した《教え》を礼拝しよう。幸せでめれ。
われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中の心のでも、神々と
人間とのつかえるこのように完成したつどいを礼拝しよう。幸せであれ。
中村元訳、ブッダのことば、スッタニパータ収録の有名なお経です。
上記の訳は中村元先生によるものですが、読んだだけではこれが霊障除災の呪文であるというこは誰も分からないと思います。
原文の冒頭を見てみます。
222 ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。
そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。
222. Yānīdha bhūtāni samāgatāmibhummāni vā yāni va antalikkhe,
sabbe va bhūtā sumanā bhavantu,atho pi sakkacca suṇantu bhāsitaṃ.
原文にbhūtāniという単語がでてきます。赤い色の文字がすべて原文ではbhūtāniとなっています。これはbhūtaの複数形で、
水野弘元先生のパーリ語辞書をひくと、真実、生物、鬼神などとあります。
Pali–English dictionaryでは、自然、幽霊、存在などとあります。
この場合は文脈上、霊的存在を意味しています。なぜなら、このブッダの言葉は、疫病を引き起こした霊的な存在にたいして、投げかけた言葉だからです。
この伝承は増一阿含経・力品、のちには密教経典の『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経』にも説かれており、やはり、霊障除災の呪を釈尊がとなえて、鬼神たちが退散するという話です。
しかし、パーリの伝承でも、阿含経でも、悪霊たちはパリッタによって退散したことになっていますが、ただ退散しただけなのでしょうか。
パリッタの内容をみると、ブッダは霊的存在たちに歓喜せよ、慈しみをたれよ、かれらを守れ、この真理(仏法僧の真理)によって幸せであれと、幾度も繰り返し語り掛けています。
けっして桃太郎の鬼退治のように、霊的存在たちを悪鬼や、悪霊よばわりして、ばっさばっさとは切り倒していません。それどころかかれらに優しい言葉をかけています。
わたくし思うに、これは霊的存在たちが、ブッダのご威光に心を打たれ、執着を離れ、会心した。その時に唱えられた言葉ではないかと思います。
なぜなら、多くの人命を奪った荒れ狂う霊的存在がまず、いきなりブッダのことばに耳を貸すような余裕があるはずもないからです。つまり、言葉を発する以前に、ブッダのご威光による強力な浄化作用があったはずなのです。
このご威光の本体とは、ブッダ釈迦牟尼世尊の成仏力にほかならないと考えます。ブッダのパリッタはいわば、その成仏力の由来説明であり、その力の源泉こそ仏法僧の真理によると説かれていると思います。
現代人が、いわゆる合理主義で解釈すると、単なる神話、または神格化されたブッダということになるのですが、お経は、現在の科学的尺度で読んだら、たまりません。もちろん、現代医学や医療技術にとってかわろうとするものでもございません。
しかしながら、お経には、霊的な存在が人間に障りを成すことがあった! という記録が残されていたことは確かです。
この霊的な存在を抜きにしては、阿含経は紐解けません。霊的な存在は、ブッダが説かれた通り、地上にも空中にもうようよいるからです。
ところで十善業とは
雑阿含経 1039 淳陀経
このお経は十善業が詳説されています。
黒法には黒報、不浄には不浄の果があり、重い荷を背負えば下に向かうように、早朝、沐浴のあと、これは清浄なりと口にするような儀礼をいくら行っても、これらの行いを離れていなければ、不浄なものは不浄の果があるのであると説いて、真の清浄行を説きます。
それが十善業であります。
これは身体の行為、言葉の行為、心の行為に分類されるもので
①以下の身体の行為を離れ、慚愧して、一切衆生が苦しみから逃れられるよう念ずる。
殺生、偸盗、邪淫
②以下の言葉の行為を離れ、真実を説き、和合して随喜し、法を説く。
妄語、悪口、両舌、綺語
③以下の心の行為を離れ、正しい見解を成就する。
貪り、瞋恚、邪見
以上の十項目です。これらは仏教の基本の徳目ですから、ご存知のかたも多いとおもいます。
またいちいち解説する必要もないと思います。
しかし、最後の邪見は詳説する必要があると思います。
簡単にいえば、よこしまな見解、正しくない見解ということですが、ではなにが邪で、なにが正しくないのかということは、現代人が解釈することとは全く違います。
仏陀の説く邪見とは
①布施なく
②報いなく
③福なく
④善行悪行なく
⑤果報なく
⑥この世、他の世なく、
⑦父母なく
⑧衆生の世間に生まるるなく
⑨阿羅漢のこの世、他の世に自ら証明して、なすべきことを成し終わり、もはや生まれ変わることはないと知ることもない。
すなわち邪見とは、仏教のとく因果応報を否定し、この世とか、次の生である他の世もない、父母(祖先を含める)もなく、衆生の輪廻転生もない、阿羅漢がもはや輪廻することはないと自ら証明することもないという見解。
仏教の教えは因果応報を繰りかえす輪廻からいかに解脱し、阿羅漢(ブッダ)となるかがテーマですから、それらをすべて否定しているので、完全な仏教否定なのです。
阿含経に説かれていた霊障
長阿含経 世記経 忉利天品 2
このお経はではなぜ霊障が起こるのかという原因にたいして釈尊が教えます。
仏は、比丘に告げられた。
「一切の、人々の住んでいる家々には、すべて鬼神がおり、空虚なところはない。一切の、通りや路地、大きな四つ辻にも、また、屠殺屋や市場、それに墓場の間にも、すべて鬼神がいて、空虚なところはない。およそ、鬼神というものは、すべて、居ついたものに応じて、そのまま、それを名前としている。人に居ついた場合には、その人の名を名とし、村に居ついた場合には、その村の名を名とし、城市に居ついた場合には、その城市の名を名とし、国に居ついた場合には、その国の名を名とし、土地に居ついた場合には、その土地の名を名とし、山に居ついた場合には、その山の名を名とし、河に居ついた場合には、その河の名を名としている」
仏は、比丘に告げられた。
「一切の樹木で、最も小さいものでも、車輪くらいのもの以上であれば、すべて鬼神が居ついており、空虚なものはない。一切の男子も女子も、生れたばかりの時から、すべて鬼神につきまとわれ、守護されている。もし、その人が死のうとする時、かの守護している鬼神がその精気を収めれば、その人は死んでしまうのである」
仏は、比丘に告げられた。
「もし、ある外道の修行者が、次のようにたずねたとしよう。
『みなさん、もし一切の男女が、生れたばかりの時から、すべて、鬼神につきまとわれ、守護されており、死のうとする時、かの守護している鬼神が、精気を収めれば、その人は死んでしまうということですが、では、人は何故に、鬼神に侵害されることがあったり、鬼神に侵害されることがなかったりするのでしょうか』
もし、このような質問に出くわせば、おまえたちは、彼に、次のように答えるべきである。
『世人が、法にもとる行為をし、邪悪な見解で物事を転倒して捉え、十種の悪業を行ったとしよう。このような人々にとっては、百人もしくは千人につき、かろうじて、一人の鬼神が守護しているだけである。たとえれば、群れ成す牛や羊の、百頭もしくは千頭が、ただ一人の牧人に守られているようなものであり、かの場合も同様に、法にもとる行為をし、邪悪な見解で物事を転倒して捉え、十種の悪業を行うならば、このような連中にとっては、百人もしくは千人につき、かろうじて、一人の鬼神が守護しているだけなのである。ところが、ある人が、善なる法を修め、見解は正しく、信心に従って実践し、十種の善業を行ったとすれば、このような人には、一人につき、百もしくは千の鬼神が守護してくれる。たとえれば、国王や国王の大臣は、たった一人で、百人もしくは
千人に護衛されているようなものであり、かの場合も同様に、善なる法を修め、十種の善業を行うならば、このような人には、一人につき、百もしくは千の鬼神が守護してくれるのである。このゆえに、世人には、鬼神に擾乱されることがあったり、鬼神に擾乱されることがなかったりするのである』」
この伝承には以下のことが述べられています。
①だれでも生まれながらに鬼神に付きまとわれている
②その人が死ぬときには、鬼神はその人の精気を取る
③鬼神はたくさんの種類があり、人、村、国などにいつく
④鬼神には守護する鬼神と、侵害する鬼神がある
⑤十種の悪業を行う人は、百人集まったとしても、一人の鬼神が守護する程度である
⑥逆に善業をおこなえば、一人につき、百人もの鬼神が守護してくれる
※この鬼神という言葉の意味ですが、やはりbhūtaのことと 思われます。鬼という漢字から、地獄の鬼や悪霊をイメージしがちですが、中国では鬼というのは人が死に霊魂の状態になることであります。またインドでも霊的存在をさすことばであり、悪い意味ばかりではありません。
仏教はこの鬼を飢えた死者の霊と考えて、餓鬼(プレータ)と呼びます。古代のインドでは、餓鬼は祖霊供養によって祖霊(ピトリ)となることができます。この祖霊供養が行われない状態の霊魂を餓鬼(プレータ)と呼びます。
bhūtaは、さまざまな霊的存在を示す言葉でしょう。サンスクリット辞書によれば
A spirit, ghost, an imp, a devil とあります。
以上でわかることは、
ひとは生まれながらに霊的な存在の影響をうけ、それは、個人、家族、国といったレベルの影響があると考えられること。
悪業のつみかさねにより、霊的存在の守護の力は弱くなり、侵害する力が強くなるということでしょうか。
しかし、ここで疑問が出てきます。生まれながらに鬼神に付きまとわれるとはどういうことか。生まれたばかりの赤ん坊は、悪業など積みようがないではないかと。
さらに、世の中には罪がなく、煩悩もない方で、とても人間的に優れているような人が、不幸な目にあって亡くなる場合があります。
このケースなども、悪業による、鬼神のせいだとするのかということです。
こういった疑問、とくに仏教の業の問題で、自業自得、悪業苦果、善業楽果という因果応報的な考えは、矛盾しているのではという疑問が当然でてきます。
この答えは仏教では、ちゃんと答えがあります。
それは前世から積み重ねてきた業が報いとしてあらわれるということ、そのひとつの現象が霊的な障害であるということです。
たとえ、すぐれた人物でも、仏教では無数に六道輪廻を繰り返しますので、地獄に生まれることもあれば、天上に生まれることもある。わたしたちが生まれ変わって、飲んだ乳の量は、地球上の大海をはるかにしのぐといいます。その間に積んだ業というものは、いつか返ってくるわけです。
しかしここで誤解されては困るのですが、すべての事象を因果応報で説くのが仏教ですが、だからといって、不幸な人生や死に方をするのは当然と考えることは決してありません。
それゆえ、ブッダは因果応報の鎖からの解脱を生涯にわたって説き続けました。
阿含宗ではどのように仏舎利をお祀りしているか
阿含宗は阿含経を依経として立宗された仏教の本道をいく宗教ですから、当然釈尊の真正仏舎利をお祀りするには、最高の格式を以てお祀りしています。以下開祖桐山靖雄大僧正猊下の文章を引用させて頂きます。
密教最極深秘の如意宝珠法による護摩
もとより、真正仏舎利は生ける釈迦如来であるから、それ自体、大功徳力を有している。奉安して一心に祈るならば、だれでもその功徳をいただくことができるであろう。
しかしながら、仏さまをおまつりし、そのお力をいただくのには、おのずから、法というものがある。
ましてや、生ける仏陀、生身の釈迦如来を奉安してご供養し、功徳をいのるのである。最高の法をもって対すべきであろう。それには、密教最極最奥の深秘の法として練り上げられた、「如意宝珠法」こそ、もっともふさわしい法と思うのだ。
(「守護仏の奇蹟」より)
この如意宝珠法は真言密教の学匠である小田慈舟大僧正猊下より直接伝授をいただいた秘法です。秘法と申しますのは、密教大辞典(法蔵館)によれば、この法には修法のお次第などは一切なく、空海からはじまる口伝のみを儀軌とするものだからです。
開祖は、小田慈舟猊下より、様々な伝法を受けていますが、突如、小田慈舟猊下のほうから、あなたには如意宝珠法を伝授する必要があると仰っていただいたのです。
こういいますと、
阿含宗はなぜ阿含経を依経としながら真言密教の『如意宝珠法』を採用するのか
という疑問がからなず寄せられます。しかし、それは前回のブログでご紹介したように、釈迦牟尼世尊がわたしの舎利は転輪聖王のごとくお祀りせよとアーナンダに指示したことと何ら違うことがありません。釈尊の説かれる、転輪聖王のごとくお祀りせよとは、最高の格式でブッダの舎利はお祀りせよということだからです。
阿含経を依経とするとうことは、2500年前のお祀りの仕方をそっくりそのまま真似ることでは必ずしもないのだということであります。
ブッダのご聖骨をどのようにお祀りするか?
アーナンダがブッダに質問しました。
「転輪聖王の葬いの方法はどのようであるのですか」
仏は阿難に告げた。
「転輪聖王の葬いの方法は、まず初めに香湯でその体を洗い、新し
多くのか
そして四方に通じる道に、塔廟を立て、遺徳を顕賞する石柱
そしてブッダは、この転輪聖王とまったく同じ方法で、私の舎利は供養しなさいと阿難に指示します。
けれども、ブッダの舎利供養と転輪聖王の舎利供養とでは、最後のご利益が違います。
ブッダは説きます。
「荼毘に付してから、舎利を拾いなさい。そして四方に通じる道に、塔廟を立て、遺徳を顕賞する石柱に絹をかかげ、道行く人々がみな仏塔を見て、法の王である如来の道による教化を思慕し、生きている時は幸福と利益を得、死んでからは天に昇ることができるようにさせなさい」長阿含経、遊行経
ここでブッダは、舎利供養により、ブッダの教えを思慕することで、現世での功徳と、死後昇天の功徳があるのだと説きます。
では、私たち現在の人間はどのように舎利供養すればいいのでしょうか。
それは当時の形式を忠実に再現することではないと思います。けれども世尊の説かれた通り、現代のわたしたちも、転輪聖王、つまり最高位の尊敬すべき人間になすように、その遺徳を顕彰すべき最上の格式があってしかるべきです。
当時の祭祀の形式はバラモン教の祭祀になります。その最高の形式が護摩法要であるとブッダが説いていたこと、仏舎利塔がバラモンの護摩法に順じて設計されていたことなどは以前、述べさせていただきました。
つまり、仏舎利供養をただしくお祀りするには、
①最高位の尊敬すべき人間になすように、塔廟を建立し、ブッダの教えを思慕し、その遺徳を顕彰する。
②祭祀の最上の形式として護摩供養が挙げられる。
ということです。