小説 あの世とこの世の中間地帯
阿含経に説かれる霊的世界の話は山ほどありますが、あまり論文調でまとめましても、面白くないと思いまして、阿含経をもとに、愚輩がよけいな脚色をして阿含経の霊的世界を一筆したためたものです。
主人公のダンは二十歳代の若者ですが、お話はこのダン青年が、ある富豪の道楽につきあって、死後の世界を忠実に仮想現実化したとされる天眼マシーンという怪しげなカプセルに入るところからはじまります。それでははじまりはじまり。。。
炎陽に焦げつくような都会のアスファルトを離れ、ダンはいつものように、ひんやりとした天眼マシーンに横たわった。これからあの世のモニタリングを始めることになったのだ。
女性の自動音声が柔らかに響く。
「地球の直径が一万二千七百キロ、その四十四倍の標高をもつ須弥山山頂に三十三天の宮殿は位置しております。これは地球の大きさを三十センチと致しますと、天界の宮殿は、そこから約十三メートル上空という計算となります」
つまり、ご近所のおばさんが育てているパンジーのプランターと、四階建てのマンションくらいの差があるのだ。
「その須弥山中腹には四天王と呼ばれる神々の居城があります。今回は、四天王親睦会と題したプログラム編成になっております。それでは古代インドの墓場からスタート致します」
なんで墓場から? そう思う間もなく、ダンの意識は死のバーチャル世界へと沈んでいった。四天王の居城に辿り着くには、四天王の配下である夜叉たちの徘徊する墓場を通らなければならない。墓場は、人間世界への執着を残す夜叉たちの棲家であり、この世とあの世の中間的領域なのだ。
墓場といっても古代インドの屍体捨て場である。葬儀には数種あり、荼毘に付し、霊園の塚や祠堂に埋葬する火葬もあるが、水葬、土葬、野葬がある。野葬は一定の場所に野ざらしにして、禿鷹や豺狼の餌とする。
また屍肉を漁るのは獣ばかりではない。日が沈み、夕闇が迫ると異形の夜叉たちが野葬の腐肉を求めて集まってくる。夜叉というのは、鬼霊とも漢訳されるが、さまざまな死霊や悪霊、自然霊を指す。
ダンが迷い込んだのは、ちょうどそのような夕暮れ時の墓地であった。地面は大雨の後のせいか、ずぶずぶとぬかるんで、泥に足を掬われそうになる。木の根っこなのか、棒きれなのか、人骨なのか見分けのつかない塊を足場にして、ダンはゆっくりとあたりの様子を窺った。
空を低く鈍色に覆う雲と、ねじ曲がった低木がまばらに生えるばかりの土地との間に、幽かに灯りのもれる小屋をみつけた。ダンはいつもながら棄権したくなったが、モニター用に設定されたプログラムが完了するまでなすすべもなく、おぼつかない足取りでゆっくりと小屋めがけて歩き出した。足は泥にもつれ、思うように前に進めない。あたりは獣たちが喰い散らかした四肢、夥しい蛆にびっしりと覆われた腐爛死体、堆積した白骨などが捨て置かれていた。
えいっ、えいっ、という甲高い掛け声が聞こえてきた。小屋に近づくにつれ、その掛け声は大きくなっていく。どうにか小屋の前までたどり着くと、ダンは明かりの洩れる隙間からなかを窺った。
黒くずんぐりした人影ごしに、赫々と灯るオイルランプが見えた。黒い影はこちらを背に丸太に座り込み、鉈を振り下ろしていた。鈍い音とともに脚や腕が大きな俎板から転がり出る。それを蓬髪の童女が親指を咥えて眺めていた。
「これっ、危ない、危ない」
黒い影が怒鳴った。
「だって、お腹すいたもーん。早くしてよー」
「夕飯はさっき食べたじゃないか。意地汚い子だよ」
黒い影は母親なのだろう。
「あっ。誰かいる」
ダンはめざとい娘にみつかってしまった。母親が振り返ってダンを睨み付けた。
「なんの用だい?」
「はい。四天王にお参りに」
「こんな時間にかい?」
小肥りの女は、無言で首を揺らすと板戸を開いた。チョコレート色の丸い顔に黒い血糊がこびりついている。
「もの好きな輩が多いよ」
女はそっけなくいった。
小屋の中は生臭い死臭で充満していた。切断された遺体が散乱し、足のやり場もない。女はそれを麻袋に詰め込みだした。死体はもがくこともなく静物のように大人しくしている。
「そんなに珍しいかい?」
「これどうするんですか?」
「狗どもが食べるのさ」
娘も手際よく手足を拾っては袋に詰めている。
パーリ仏典テーラガーター(長老の詩)にいう。
黒い大女が鴉のように身を屈め
ひとつの腿を切断したら、他方の腿も切断する
ひとつの腕を切断したら、他方の腕も切断する
それらを鉢のように積み上げて座っている
この小肥りの女も、納屍堂と呼ばれる小屋で働く死体処理人なのだ。
「さあ、行こう。あんたも手伝っておくれ」
麻袋のひとつをダンも受け持たされた。
墓地は死の世界ではない。何千、何万というコオロギやヒキガエル、カラスやミミズクなどが喧しく啼いていた。袋の死体は近くの丘の上まで運び、ばらまくだけでよい。あっというまに飢えた豺狼たちが平らげてしまう。
娘の目当ては、鴉の喰い残したお供物の果物、お菓子や麦焦がしの団子だった。昼間、火葬の煙の上がるのを見定めておき、人気の途絶えた大禍時にお下がりを物色するのだ。娘は戦利品を腕一杯に抱え、意気揚々と先導する。
やにわに娘は駆け出した。
「おにいちゃーん!」
甘えた声でだれかに声を掛けている。
小さな土饅頭の横に、若い男が胡坐をかいていた。娘は彼に調達したばかりのお下がりをあらかたあげてしまった。
「いつもありがとう」
若い男が礼をいうと、少女ははにかんで「いいの」
小肥りの女はぶっきらぼうに声を投げた。
「あんた、もう帰りなよ。そろそろ十日にもなるよ」
「いや、いいんです。ぼくの暮らすところはここしかないんです」
青年は傍らの土饅頭を愛おしそうにみつめた。
「お釈迦様もいうだろう。死んだ者は帰らないって」
彼は若い妻に先立たれ、彼女を慕うあまり墓地で暮らすようになった。娘は痩せ衰えていく若い男を見かね、お下がりをあげていたのだった。
「おばさん、ぼくはね、ここにいると妻がそばにいるような気がして、とても死んだとは思えない」
女は腕組みをして、気の毒な男を冷ややかに見下ろした。
「骨に惚れてどうする?」
しばらく墓地の奥へと歩いていくと、煌々と揺らめく灯りが見えてきた。サークル状にオイルランプを並べ、その中心で火葬灰にまみれた丸裸の男が蓮華座を組んでいた。手には髑髏の杯を持ち、何かを飲み干している。
男と目が合うと、真っ赤に濡れた唇がニタリと嗤った。古代インドの墓地は、さまざまな隠者たちのたまり場なのだ。財産を放棄し、世俗から離れ、火葬灰にまみれ、木や獣の皮を纏う。仏教の出家者も、しばしば墓地を修行場とした。
テーラガーター(長老の詩)に曰く。
わたしは墓場に女が棄てられ
躰中を蠢く蛆虫に喰い尽くされているのをみた
愚者たちの好物であった肉体をみよ
病に侵され、不浄と腐臭を垂れ流す集まりを
釈迦時代の出家は、墓地にあって死骸の徐々に朽ちていくさまを観察し、肉体への欲求を抑制しようとしたのだ。また墓地では糞掃衣(ふんぞうえ)を調達する。腐敗の終わった死体から衣を剥ぎ取り、洗ってから染め直し、小片に裁断した布を継ぎ合わせて袈裟としたのだ。
ある比丘は腐りかけの死体から無理に衣服をはぎ取って、僧房に持ち帰った。翌朝、死骸が僧房の戸口に頽れていたという。生腐りの屍が比丘の後を追いかけてきたというのだ。
この事件のあと完全に腐った死体からのみ衣を得ることという律が制定された。
闇の迫る丘の上で、死体処理の女は切断された腕や脚をばらまいた。はやくも山狗たちが集まりだした。初めにリーダー格が内臓をガツガツ喰いだす。つづいて他の狗たちも低い唸り声をあげながら争って喰らいつく。
女がぼそりといった。「もう、そろそろ帰ったほうがよさそうだ」
あたりを吹きぬける風の勢いが増してきた。
女はダンにむかっていった。
「これからは夜叉たちの時間だ。四天王に参拝に行くんなら奴らに頼んでみな」
女は娘の手を曳いて歩き出した。
「おじちゃん、さよならー」
少女はダンに手を振った。
(おじちゃん? しかも奴らって誰?)
女たちの背中ははやばやと夕闇の中に吸い込まれていった。
まもなく、ずるずると何かを引きずるような音が近づいてきた。鴉たちが一斉に林から飛び立つ。巨大な黒い気配がダンに迫ってきた。殺気立つ無数の息遣いがダンの周囲を埋め尽くし、徐々にその範囲を狭めていた。
頭上に雷鳴が起こり、閃光が走ると、低く垂れ込めた雲が蠢く臓物のように浮き彫りになった。同時にダンのまわりに集まってきた黒い影の塊も一瞬露わになった。
猪や魚の口を持つもの、虎や熊、象、髑髏の頭を持つもの、眼がひとつのもの、顔面が半分ないもの、顔がたくさんあるものたちが、屍肉を求めて闇夜の墓地や樹林に戯れ、跳梁する。あるものは三叉の鉾を引きずり、叫びながらこん棒や鉈を振りまわして威嚇する。仏伝諸経典で、夜叉たちは異形の群れとして描かれる。
とぐろを巻く雲塊に稲妻が走るたび、邪悪な気配は濃くなっていった。彼らは一斉になにか呟いていた。耳を澄ますと、出ていけ、出ていけと聞こえる。仕方なく手探りでそこから出ようとすると、今度は入れ、入れと聞こえる。そこで引き下がると、再び出ていけ、出ていけと聞こえる。どうすることもできない。真っ暗闇で立ち往生したダンは地べたに座り込んだ。腰が抜けたのではなかった。開き直ったのだ。
「お前ら、うぜえんだよ。俺は四天王に会いたいだけなんだ!」
と小胆者ほど、ときにくそ度胸を発揮するものである。
誰かが胴間声を発した。
「まあ。礼儀を知らない殿方ですこと。まず、あたしたちの質問に答えなさい。もし答えられなかったら、お仕置きタイムよ。あなたのおつむは正気を失い、心臓が破裂するでしょう。そしたらガンジス河に沈めてあげる」
ダンを取り囲む夜叉たちは大嗤いした。
――こいつらはどうせバーチャルだろ。でもいつ終わるのかな?
ダンは独語した。
「さあ、質問です。その一。この世で最高の富とはなんでしょう?」
ダンの額からねばっこい汗が滴った。そもそも富という言葉に縁遠い男だから適当な答えが浮かばない。
(金? 株? いやもっと価値のあるものあるよな。超大きな豪邸。いや、そんなもんじゃないな……。そうだ土地だ)
「土地、いや国、大きな国を所有すること。……かな?」
血に飢えた夜叉たちは、赤い眼をらんらんと輝かせて、「ファイナルアンサー?」と畳み掛けた。
忍び嗤いがあちこちから起きた。答えに窮するダンに、すぐにも夜叉たちが跳びかかろうとにじり寄る。闇は殺気に凍りついた。
そのとき、突如、ダンの頭上に朗々とした大音声が響いた。
「この世で、最高の富は信用である!」
夜叉たちの動きが止まった。そしてダンを睨み付けている。稲妻が走り、雷鳴が轟く。夜叉たちは訝しんでいたが、ふたたび質問が始まった。
「では、その二。幸せになるために何をすればよいか?」
「正しい方向に歩め!」
またしても大音声が響く。
「いちばん美味しい味は何か?」
「真実に勝る味はない」
「最高の素敵な生活って?」
「智慧のある生活」
質問と解答の応酬はしばらく続いた。おもしろくないのか、舌打ちして帰ってしまう夜叉たちもいた。
「誰の声だ!」
一人の夜叉がしびれを切らしたように叫んだ。
すると強烈なサーチライトで照射されたようにダンの周囲が白く輝いた。
「私は毘沙門天だ!」
気が付くと、ダンのそばに巌のような体躯の巨漢が立っていた。見上げると瑠璃が象嵌された見事な白銀の鎧で全身を固めている。右手にブッダの教法を込めた多宝塔を持ち、左手に三叉の戟を突いてかるく腰をひねる。顔つきはVシネマも真っ青の強面である。
強烈な光線が辺りを覆い、夜叉たちは眩しそうにうずくまり、睨まれては縮み上がった。彼こそ四天王のひとり、須弥山の北方を支配し、夜叉の軍勢を配下に従える大将軍だ。また釈尊の説法会では警備にあたり、よくその法話を聞いたから多聞天とも呼ばれる。古い聖典スッタニパータにもかれの名が現れる。古代インド神話では布袋様のような福の神であった。
四天王親睦会
ダンは毘沙門天の背に乗り夜空を翔けた。訪れたのは須弥山北側の中腹に突き出た庭園だった。この苑林の中央部には、二百八十キロ四方の広大な池が広がる。その池のほとりに人間向きにあつらえた東屋がある。満天の星空に白金の丸い月がかかり、池には微光を放つ色とりどりの水蓮が咲き乱れていた。すでに人間の武将姿に化身した持国天、増長天、広目天の一行が席についていた。四天王のリーダー格は毘沙門天であり、彼が心中で庭園に行こうと思うだけで、みな側近を引き連れて参集するのだ。
「さあさあ、今宵は無礼講としよう」
毘沙門天が気炎を上げた。
「久々に人間のお客様じゃないか!」
東方を守護する神、赤ら顔の持国天がニンマリと笑った。彼は国を維持する神ともされる。彼の後ろに控える数人の楽神ガンダッバたちが、琵琶や竜笛などで即興のアンサンブルを始めた。
「人間から直接話を聞けるとは珍しい。なんでもいいから、遠慮せずに話にしてくれよ」
南方を守るでっぷりとした増長天が眉間に深い皺を刻んで笑った。彼は穀物の成長をつかさどる神だ。背後のクンバンダと呼ばれる馬頭の自然神たちが一斉に拍手した。甕のような陰嚢が腰布からはみ出ている。
「どうした。さっきからおとなしいじゃないか」
西方の守護にあたる醜怪な藪睨みの持ち主、広目天が眉を顰めた。
「不満でもあるのか?」
すると彼の脇でとぐろを巻いていた数十匹の蟒蛇たちが一斉に鎌首をもたげる。広目天は千里眼を使って世間を観察するという。
「おいおい、あんまり脅かすなよ」と眩しげな眼差しの毘沙門天が間に入る。「まあまあ、呑みなさい」
毘沙門天がお神酒をなみなみとついだ杯を差し出した。
「きみ、どうして我々を探していたのかね?」
「はい。実はぼくは死の世界などというものは信じてなかったのです。ところがバイトであの世のモニターを引き受けることになりまして」
「信じてもいない世界に来たってわけか」
毘沙門天がいうと、一同が薄ら笑いを浮かべた。
「きみたちの世界じゃ、脳が死ねば意識も無になると考えているものが多いと聞くな」と赤ら顔の持国天が杯をあおって、
「脳が死ぬと、あとは朦朧とした意識が残る。だが禅定を行なっていた者は意識を明瞭に保つ。俺たちも人間であったときに、もう少し禅定をしていたらもっと違う存在になっていたのにな」
すると眩しげな眼差しの毘沙門天がいった。
「仏典に、人間は神々よりも勇猛で記憶力に優れ、実務能力に長けている。また修行に集中でき、人間の中からブッダが現れるというな」
「脳のなかで意識は育つ」
肴に箸を伸ばしながら、でっぷりとした増長天がいった。
「残念ながら、ほとんどの人間はそのお宝を眠らせているようだ。もっとも使い方を誤ったらとんでもないことになるがね」
藪睨みの広目天がいった。
四天王は毎月六回ほど地上世界をパトロールすることになっている。仏教ではこれを六斎日と言って、在家信者が八斎戒を守る精進日と定めた。定期的に寺社にお参りし、お坊さんの説法を聞いて内省する。六斎日は新月から満月までの月の前半で八日、十四、十五日と、月の後半の二十三、二十九、三十日を指す。四天王の巡回はある時は配下の夜叉に命じ、ある時は息子たちを使う。また自分たちも見廻りに出る。そして地上の出来事はすべて帝釈天に報告される。
「ところで夜叉ってなんなのですか?」
「ありとあらゆる亡霊、悪霊、自然霊などだ。鬼神とも漢訳されるな。鬼というのは漢語では死霊ということだ。日本でも死んだ人のことを鬼籍に入るという。大きな意味でいうと我々も夜叉だ」
「ぼくたちの世界ではただの空想上の産物ですが」
ダンがそういうと四天王の眦に一瞬ただならぬ険が走った。
しかし毘沙門天はすぐに眩しそうに眼を細め、
「見えてないだけだ。この宇宙には正体不明のダークマターやダークエネルギーといった光学的に観測できない物質があるというじゃないか。観測可能な物質は僅か四パーセントに過ぎないという。同じようにあらゆる人の住居には人間たちには見えない鬼神が満ちていて、空虚なところはどこにもない。すべての通りや路地や十字路、市場や墓、村、土地、川、山などにも満ちている」
「でも、僕たちになにか影響があるんですかね?」
「もちろんだ。鬼神の中には人の邪魔をするものと、人を守護するものがある。どちらの影響を受けるかは、仏の定めた法と十善業が守られているかどうかによる」
「十善業?」
「業とは行いのことだ。行いには三つある。身体による行為、言葉による行為、心による行為だ。この三つの善い行いを十に分類したのが十善業だ」
「へえ……」
「十善業を甘く見るなよ。これが修められたらお前は、望むなら神にもなれるし仏にもなれるのだ」
「ちなみにどんな行為ですか」
「一つ、殺害をしないこと。二つ、盗まない。三つ、不義を働かない。ここまでが身体の行為だ。四つ、嘘偽りがない。五つ、二枚舌を使わない。六つ、誹謗中傷しない。七つ、戯言をやめる。ここまでが言葉による行為。八つ、貪らない。九つ、怒らない。十、誤った考えを捨てる。以上が心の行為だ。ブッダが説く誤った考えとは、人を助けても意味がなく、その報いも福もない。善いことをしても悪いことをしても無意味でその報いもない。この世もあの世もない。父も母もない。ひとの命に意味はない。ブッダも阿羅漢もいないといった考えだ。この十善業が地上で守られなくなると、人々を守護する鬼神の数が減る」
「そんなこと完璧にできる人いるのですか?」
「いない」
「できなきゃ地獄行さ」
赤ら顔の持国天がほくそ笑んだ。
「懺悔しなさい」
とでっぷりとした増長天。
「懺悔だけじゃだめだね――」藪睨みの広目天がいった。
「八〇億回前くらいの宇宙誕生から積んできた罪業の罪滅ぼしをしなきゃ」
毘沙門天は眩しげに微光を放つ蓮池を眺めていたが、やにわにダンのほうに向きなおりいった。
「きみにもアーターナータの護呪を教えとこう」
「アーターナータ?」
ダンが訊き返すと、後ろの夜叉たちが口を開いた。
「閣下の天空に浮かぶ城塞のことだ」
毘沙門天はいう。
「なにしろ夜叉の中にはたちの悪い連中がいて、堅気の人に取り憑いて離れないことがある。こういう連中は殺生や盗みなどの十悪業がなにより大好きなのだ。だから真面目な信者や比丘たちが悪い影響を受けないように、私が世尊にお伝えした護呪があるのだ。いま唱えてみようか」
智慧の眼を持つ光輝なヴィパシン仏に帰依します
一切衆生の為に慈しみ深いシキン仏に帰依します
浄められた苦行者のヴェーッサブ仏に帰依します
魔王の軍隊を打砕いたカクサンダ仏に帰依します
やり遂げた婆羅門コーナーガマナ仏に帰依します
何処に於いても自在なるカッサパ仏に帰依します
一切苦を除く法を示したゴータマ仏に帰依します
………
アーターナータの護呪は釈尊を含める過去七仏への帰依に始まり、四天王の権威と威力を誇示し再び釈尊への礼拝と誓いで終わる。東南アジアの仏教国ではこれをパリッタ(護呪)と言い、実際に今も悪霊祓いの儀礼に使用する。
毘沙門天がいった。
「きみがこの呪文を習得すれば、ごろつきの邪霊に付き纏われるようなことはなくなる。なにしろ仏に帰依しているものに手を出したら、俺たちの国では村八分になったあげく、西瓜のように頭を砕かれるきまりになっているのだ」
毘沙門天の目はいつしか血走っていた。
「だがなかには極悪な凶悪犯がいるもんだ。もしそいつらに出くわしたらこの呪を唱えなさい」
我は汝らを召喚す!
インダ、ソーマ、ヴァルナ、バーラドヴァージャ、パジャーパティ、チャンダナ、カーマセッタ、キンニガンドゥ、ニガンドゥ。
………
マニ、マーニチャラ、ディーガ。そしてセーリッサカよ!
我は威力ある夜叉、大夜叉、軍帥、大軍帥を召喚す。
我が訴えを聴け。
この鬼霊は我らを侵し、悩ませ、害い、いまだ去らず!
「この呪は鬼霊110番みたいなものだ。通報が寄せられたら所轄の四天王軍団が直ちに現場に急行し、凶悪犯どもを一網打尽にする」
アーターナータの護呪は、二段階の悪魔祓いの過程で使用される。まずごろつきの鬼霊を、過去七仏への帰依と権威を持つ夜叉の名とによって抑止しようとする。ちょうど水戸黄門一行が葵の紋を振りかざして、悪代官たちをひれ伏させるのと同じである。しかしそれでも逃げ出したり、手向かったりする輩がいるものだ。そのときは助さん角さんの出番となる。同じように、障りを止めない邪霊は、仏法を守護する最強の軍団に取り締まってもらうのだ。
四天王とその配下は、この呪を毘沙門天から聞くあいだ姿勢を崩すこともなく、眼は炯々とダンを見据えていた。
ダンが訊く。
「十善業、できなくてもパリッタだけで護ってもらえますか?」
四天王たちが噴き出した。
「ワッハハハ! 試してみりゃわかるさ」
※参考経典
パーリ長部経典(アーターナータ経)ほか