阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

四神足法と間脳

阿含宗開祖である、桐山靖雄師は、たびたびご著書のなかで、大脳の働きを自在にコントロールする技術が阿含経の成仏法である四神足法のなかにあったと指摘されています。

もちろん、阿含経には大脳にかんする記述はありません。そもそも大脳という名称と定義は近代科学の産物ですから、あるはずもないのです。

ではどうして、阿含経と大脳を結びつけるのかといいますと、阿含経をひもといていくと、どうしても大脳の機能と、その開発に関わってくるからなのです。

たとえば、仏教でいう貪瞋痴の三毒、この三毒が全ての不幸の原因だから、これをなくしなさいという教えがありますが、その教えを聞いて、納得しても、実際になくすことができる人がいるでしょうか。

貪瞋痴というのは、野生本能に由来するものですから、なかなか消せません。これを消すか、制御しようと思ったら、動物脳由来の大脳辺縁系を自在に制御しなければなりません。

だから、大脳辺縁系の手綱を握るのが新皮質脳の役割だと考えるのも早計です。

いうまでもなく、新皮質脳をつかって阿含経百万遍読誦したり、戒律でがんじがらめに縛っても、大脳辺縁系はそもそもがワニやウマの脳構造に近いものですから、手足を鎖でつないで、陋屋に隔離するようなものであります。 

では、どうやって阿含経に説かれる成仏法がその課題に向き合うのか。その鍵🔑は、四神足法と、間脳にあります。

では四神足法とはなにか。Wikipediaを参照してみます。

四神足(しじんそく、巴: cattāro iddhipādā[1], 梵: catvāra ṛddhipādā[2])とは、仏教における「三十七道品」の中の1つ[2]。『倶舎論記』においては神通力を起こす基礎となる4つの三昧。『アビダンマッタサンガハ』(摂阿毘達磨義論)においては禅(jhāna)、道(magga)、果(phala)を得るための基礎(iddhipādā)[1]。「四如意足」(しにょいそく)[注 1]とも[2]。


倶舎論記における四神足
欲三摩地断行成就神足(梵: Chanda-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3][4]、よくさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 意欲によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
勤三摩地断行成就神足(梵: Vīrya-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、ごんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 精進によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
心三摩地断行成就神足(梵: Citta-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、しんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 心によって様々な神通力を起こす三昧[2]。
観三摩地断行成就神足(梵: Mīmāṃsā-samādhiprahāṇasaṃskārasamanvāgata ṛddhipāda[3]、かんさんまじだんぎょうじょうじゅじんそく) - 観によって様々な神通力を起こす三昧[2]。


アビダンマッタサンガハにおける四神足
欲神足 (巴: chandiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、意欲という基礎[1]。
勤神足 (巴: viriyiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、精進という基礎[1]。
心神足 (巴: cittiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための(二十一種の善心である)心という基礎[1]。
観神足 (巴: vīmaṃsiddhipāda[1]) - 禅・道・果の成就のための、観という基礎[1]。

 

中村元における四神足
欲神足 - すぐれた瞑想を得ようと願うこと[5]。
勤神足 - すぐれた瞑想を得ようと努力すること[5]。
心神足 - 心をおさめて、すぐれた瞑想を得ようとすること[5]。
観神足 - 智慧をもって思惟観察して、すぐれた瞑想を得ること[5]。

 

大脳、とりわけ間脳を自在にコントロールする技術にしては、上記の言葉の羅列に拍子抜けしますが、なにやら神秘的な力を起こす基礎であることは間違いないようです。

しかしながら四神足と間脳を結びつける論拠は何でしょうか?

いくつかの証拠を挙げることができます。

 

 

 

 

 

 

 

ブッダの成仏法と大脳

1983年、世界的に著名な科学ジャーナリスト、アーサーケストラーはこの本のなかで、『驚くばかりの人類の技術的偉業。そしてそれに劣らぬ社会運営の無能ぶり。この落差こそ、人類の病のいちじるしい特徴出ある。』とし、その原因を脳の構造上の欠陥を指摘します。脳の構造上の欠陥とはなにか? アーサーケストラーは言う。

「爬虫類型」の脳と「古代哺乳類型」の脳は、ともにいわゆる辺縁系を構成しているが、それは新皮質という人類特有の思考の帽子〉に対し、単純に〈古い脳〉とも表現できる。さて、人間の脳の中核にあって、本能、激情、生物的衝動をコントロールしているこの古い脳構造がほとんど進化の手の影響を受けていないのに対し、ヒト科の新皮質は、過去五〇万年に、進化史上例を見ない爆発的スピードで発達をとげた。実際、解剖学者のなかには、その急成長ぶりを腫瘍の成長にたとえるものさえいる。
洪積世後期におこったこの脳の爆発は、今日人口爆発や情報爆発などですっかり有名になった指数関数の曲線形態をたどったよ う だ (さまざまな分野、領域での歴史的加速現象がこうした曲線で表わされるのも、単なる表面的な類似ではないかもしれない)。しかし、爆発的成長から調和のとれた結果は生まれない。急速に発達していく思考の帽子は人間に論理的な力を与えはしたが、情緒専門の古い脳構造と適切に統合、調整されることなく、先例のないスピードで古い脳の上に覆いかぶさっていった。古い構造の中脳と新皮質をつなぐ神経径路は、どうみても不十分だ。かくして脳の爆発的成長は、古い脳と新しい脳、情緒と知性、信念と理性とが相剋する精神的にアンバランスな種を誕生させた。一方で青白き合理的、論理的思考がいまにも切れそうな細糸にぶらさがり、一方で感情に縛られた不合理な信念が、過去と今日の大虐殺の歴史のなかに狂気となってくっきりと姿を映している。

1971年、阿含宗開祖桐山靖雄師は、すでに『変身の原理』のなかで、アーサーケストラーとおなじ課題に向き合い、それを解決する方法を提案しています。

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師は、大脳新皮質の代表である、前頭連合野の働き、大脳辺縁系の代表である海場の働きを深く考察、検証しつつ、結論として次のように述べている。

深い層の奥にある旧皮質、古皮質にぞくする心を自由自在にコントロールして、理性知性とむすびつけることもすれば、きりはなすこともし、あるいはそれ自身単独で一つの方向に向けることもできる。そういう独自な方法を開発し完成していたのである。大随求法がそれである。わたしが、さきに、密教は、フロイト、パブロフをとうに越えていたといったのは、ここのことを言ったのである。結論を言おう。ホトケとはいったいなにか?p.323

ホトケとは、生理学的にいうならば、大脳辺縁系の深い層の心と、新皮質系の理性知性の心とを、自由自在に操作する技法を身につけたヒトである。それがホトケという存在であり、密教とはその技法をつたえるシステムなのであった。p.323

※『変身の原理』 この著書はほかにも、大脳生理学、深層心理学、古代の密教にかんして、さまざまな考察を重ね、詳しく論じているため、誤解を避けるためにもぜひ幾度も目を通していただきたい本です。

※前頭連合野 この脳領域は複雑な認知行動の計画、人格の発現、適切な社会的行動の調節に関わっているとされている。この脳領域の基本的な活動は、自身の内的ゴールに従って、考えや行動を編成することにあると考えられる。Wikipedia

※海馬(かいば、英: hippocampus)は、大脳辺縁系の一部である、海馬体の一部。 特徴的な層構造を持ち、脳の記憶や空間学習能力に関わる脳の器官。 その他、虚血に対して非常に脆弱であることや、アルツハイマー病における最初の病変部位としても知られており、最も研究の進んだ脳部位である。Wikipedia

密教 密教は、最初、ひとつの手法であった。けっして、最初から、密教という一つの宗教があったわけではない。ゴータマ・ブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラモンの時代から、インドには、人に超能力をあたえる一つの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい練磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでつくりあげていた。p.65『変身の原理』

 

 

仏教の世界観と大脳の構造

仏教の世界観は三界といわれる欲界、色界、無色界の三層構造になっています。

                  

起世經卷第八

於三界中。有三十八種衆生種類。何等名爲三十八種。諸比丘。

欲界中有十二種。

色界中有二十二種。

無色界中復有四種。

諸比丘。何者欲界十二種類。謂地獄。畜生。餓鬼。人。阿修羅。四天王天。三十三天。


何者色界二十二種。謂梵身天。梵輔天。梵衆天。大梵天。光天。少光天。無量光天。光音天。淨天。少淨天。無量淨天。遍淨天。廣天。少廣天。無量廣天。廣果天。無想天。無煩天。無惱天。善見天。善現天。阿迦膩吒天等。此等名爲二十二種。


無色界中。有四種者。謂空無邊天。識無邊天。無所有天。非想非非想天

 

ざっと欲界には12種、色界には22種、無色界には4種ありとし、合わせて38種の生命存在を説くのであります。

 

この三界は瞑想の深まりにおいて、だれもが認識できる世界として説かれています。つまり、下は地獄から上は非想非非想天まで、禅定で体験できる世界です。とすれば、大脳もまた、三界に対応した部位があるはずです。つまり、ブッダの説いた禅定の世界を大脳に対応して比較検討するということは大変興味深い話ではないでしょうか。

阿含宗開祖である桐山靖雄師は悟りを大脳生理学の上からも検証考察をかさねた指導者です。

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 この中で師は、大乗経典は新皮質脳の経典、阿含経は間脳開発の経典とし、詳細を説いています。p.101

また、瞑想は大脳辺縁系と新皮質脳しか動かすことができず、もろもろの因縁による人間の繫縛から解脱するためには、間脳をはたらかす瞑想が必要であると説きます。p.176

そしてきよめられた聖者・須陀洹のページp.223では

 

 人類はここ数千年間、新皮質脳による世界をつくりあげてきた。霊的世界を抹殺して しまい、霊的世界の存在を認識する間脳を閉鎖してしまった。現象世界と霊的世界が共存している実相世界をただしく認識させるためには、新皮質脳(と大脳辺縁系)を一時閉鎖して、霊的世界を認識できる間脳を動かす訓練をしなければならないのである。まちがいをおかしている心をまちがいをおかしている心で変えさせようとしてきたのである。これは徒労であった。新皮質脳をつかって新皮質脳を変えさせようとしていたのである。

と説いています。

これを三界にはてはめますと、欲界は新皮質脳、大脳辺縁系がつくりだす世界観と対応するかもしれません。さらに色界、無色界という禅定の境地がありますが、ブッダは無色界の最高所である非想非非想天まで上り詰めても、因縁解脱はできないのだとさとり、瞑想の師であったウッダカ・ラーマプッタのもとを去ります。

おそらくウッダカ・ラーマプッタは、新皮質脳、大脳辺縁系を完全に制御できた瞑想の達人だったのでしょう。しかし、どうやら間脳を開発し、大脳を制御するまでの境地には達していなかったのです。そのため禅定から醒めてしまえば煩悩も発生して、消えてなくなる訳ではなかったと聞きます。

ここで、霊的世界について一言触れておかなければなりません。開祖の説く霊的世界とは、間脳を働かせ、人間を業によって縛る因縁の繫縛から自由になるための世界であり、ブッダのとく、聖者の第一段階、きよめられた聖者・須陀洹がまのあたりに認識する世界であるということです。

 

※四向四果 とは、原始仏教や部派仏教における修行の階位のことであり、預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果(音訳で須陀洹、斯陀含、阿那含、阿羅漢)のこと。四双八輩ともいう。果とは、到達した境地のことであり、向は特定の果に向かう段階のことである。 ウィキペディア

 

すると、三界のなかに聖者・須陀洹はいないのかというと、そうではありません。これも経典で解説されており、須陀洹から斯陀含までは欲界に属します。阿那含は色界、無色界で、阿羅漢はもはや三界に依存しない涅槃に入ります。

 

やっぱり大脳辺縁系大脳新皮質の影響下にはいるのです。しかし、凡夫とちがうのは、聖者は、欲界に存在はするが、間脳が働き始めるとだんだんと欲界の影響から自由になっていきます。

 

いま仏教徒がなすべきこと。

149 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし         生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。
       上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この         (慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。中村元

有名なお経スッタニパータの『慈しみ』の一節です。ブッダはこのお経で慈しみによる世界平和を説いています。

しかし今や世界のあちこちで、紛争はやまず、独裁主義が息を吹き返し、一層不穏な空気が世界を覆うようになりました。

世界の仏教徒は一層奮起して全世界に対して慈しみの実践をすべきです。

しかし、実践する仏教徒は少ないです。なぜなら、『無量の慈しみ』の心をどのように実践したらよいのか。『無量の慈しみ』という心の力がどれほどの力か、具体的に見当もつかないからです。 

勿論、これぐらいのことは、どんな思想界のリーダーでも言えそうに感じます。

しかしながらブッダの発する言葉は違います。

まず第一にいっさいの生きとし生けるものとは、生物だけでなく、霊的世界の有情もはいるということです。仏教で説く一切の世界とは、三界、すなわち欲界、色界、無色界のことです。

これは禅定の深まりによって体験できる世界で、深い意識のなかで、その認識が全宇宙にまで広がる体験です。

つまりブッダは、現象界の上に肉体を超えた数限りない霊的世界の有情に対しても呼びかけています。ブッダの説く『無量の慈しみ』とは誇張でも譬えでもなく、実際に無量の生命に対する無量の慈しみにほかなりません。

なぜ霊的世界にまで呼び掛けるのか。それは、三界の大部分はじつは霊的存在によって占められているからです。とくに人間は死んで終わりではなく、霊的存在として縁起の法則によって存続していきます。いや、あらゆる生物が六道輪廻をするのですから、すべての生物はじつは、霊的存在だといっても過言ではないのです。

その霊的存在としての人類が、度重なる戦乱や、侵略、理不尽な弾圧を繰り返し、怒りや、貪り、愚かさ、悲しみや恨みつらみをもったままで、どんどんと増え続けたら世界はどうなるでしょうか。

まえに無数の鬼神(霊的存在たち)がこの世界に満ちており、かれらは、個人にも家庭にも国にも様々な影響を与えているというブッダの教えをご紹介しました。

いつ核戦争がおこっても不思議ではない、現在の社会は、そのまま霊的世界の不浄を示しています。

下記ブログ参照 

zaike.hatenadiary.com  

つまり霊的不浄とは、霊的存在の怒りや、懊悩の塊の集積です。これを浄めることができるのは、ブッダの成仏力しかありません。

なぜなら、ブッダのことばは、実際に三界を見据え、三界に対して、やすむことなく仏法を説き、三界にいきる有情の幸せ安穏を祈り、無量の慈しみを注ぎ続けています。そしてその祈りは実現する力をもっています。

なぜなら禅定の深まりにおいて、発せられた言葉には、じっさいに全生命に対する救済力があるからです。 

では、ブッダがひとり、宇宙大にまで広がった意識によって、かってに人類が救えるのかというとそうはいきません。いかにブッダが全世界にむかって法を説いても、人類のひとりひとりが違う方向を向いていたのでは、その祈りは届かないのは当たり前のことです。 

わたしたちは、ブッダの祈りに対して、祈りをもってこたえる必要があります。

またそのためにブッダの祈りの原点である、ブッダが説いた成仏法を学び、実践していくことが必要です。

阿含宗では、阿含経にとかれた成仏法の実践をするとともに、生きた人間だけでなく、無数の霊的存在にも祈りを向けたブッダにならい、世界各地で戦争や災害で不幸な死に方をされた御霊に対して、ブッダの成仏力が届くよう、ブッダに祈りをささげています。そのために、より多くの人の祈りを集めています。

まずは七月十三、十四、十五日の盂蘭盆万燈会です。

こちらはご先祖供養が主たるものの、世界各地で紛争や疫病で亡くなった方々のご供養も致します。

www.agon.org

ご縁があれば、ぜひご参拝ください。

 

 

阿含経の先祖供養

墓を作ったマハー・ローマハンサ

一 我、塚墓中に人骨を置きて臥床(寝床)を作れり。村民は近づきて多くの様を示せり。
二 また他のものは香・花・鬘、多種多様の食物、その他の捧げものを(世に関する)倦怠の意を以て、手にて持ち来たれり。
三 我に苦をなすもの等と、また我に楽を作るもの等と、すべての者に平等にして愛(執着)と恚(怒り)なかりき。

四 楽と苦において平等にして、また名声と不名声においても、一切の場合において我平等なりき。これわが捨波羅蜜なり。
南伝大蔵経 小部教典 所行蔵経 第一五 マハー・ローマハンサの所行

これは、ブッダの本生物語の一つです。マハー・ローマハンサが、墓を作り無くなった人を弔っていると、村人たちのなかには、供養されている人骨の生前を知る者がいて、嫌悪したり、また喜んだりした者がいたのでしょう。マハー・ローマハンサは、そんなことに関係なく供養を続けました。
この話は、先祖だけでなく、広く死者を供養することが怨親平等なる捨波羅蜜(平等心の実践)となることを示しています。また、「塚墓中に人骨を置きて臥床(寝床)を作れり。」というのは、当時の埋葬の様子を知る貴重な手がかりとなります。他のお経と示し合わせると、仏陀仏弟子たちの時代には、死者を荼毘に伏して埋葬する習慣があったことが伺えます。ヒンドゥー教徒は、先祖供養はしますが、墓は作りません。死後には肉体は滅び、魂は転生してしまうため、墓は必要ないというのです。しかし、阿含経の中には「塚間:ちょうけん」もしくは「丘塚」という語がときおり出てきます。塚とは文字通り墓を意味する単語ですから、阿含経の世界では、死者の骨をお墓に埋葬するというのが一般的な習わしであったと言うことが推測できるのです。

阿含経の先祖供養

パーリ聖典 餓鬼事経から先祖供養のお経です。


戸外鬼事

一 彼らは住家の外に、または街の四辻に立ち、あるいわ古き各自の家に行きて戸口に        立つ。
二 過去の業によって多く食物や飲物、堅き食物、軟らかき食物の供えられたる時、この世の因縁あるものは、誰も彼らを記憶するものなし。
三 慈悲ある人は、因縁あるもののために、清浄にして、すぐれたる、時に適したる食物飲物をあたふ。こは、汝ら逝きにし因縁あるもののためとなれ。因縁あるものは満足してあれと言いつつ。
四 彼らは此処に集まり、集まりし因縁ある餓鬼らは多くの食物飲物に非常に喜ぶ。
五 彼らは言う、これらのものを受けたるその人々によりて、我ら因縁あるものは長く生きん。我らのために供養はなさる。またこの施主は果なきことなしと。
六 実にこの世界には耕すこともなく、牧畜もなく、商売の如きもなく、金によりて売買することもなし。
七 この世から受くることによりて、死の世界の餓鬼は生きていく。高き所の水の低きに流るるが如く、かくの如く実にこの世からの施物はもろもろの餓鬼に利益あり。
八 溢るる河の流れ海を満たす如く、その如く実にこの世からの施物はもろもろの餓鬼に利益あり。
九 我に施したり、我に善行をなせり。彼らはわが因縁あるものなり、友なり、仲間なり。過去の業を憶い起こして餓鬼に施物を与えしめん。
一〇 泣くことも、悲しむことも、その他嘆くことも、この餓鬼らには何の益ともならず。かくの如く因縁あるものは立ちてあり。
一一 されどこの施物の僧団に与えられ使用せられなば、長く死人の利益となり、よく彼を利す。
一二 ここに記せられたるこれは、因縁あるものに対する義務にして、もろもろの餓鬼には非常なる供養がなされ、僧には力を与える。また汝らには少なからず福が得られると。
南伝大蔵経、第二五巻小部教典、餓鬼事経、五、戸外鬼事


ここでは、二種の餓鬼供養の方法が説かれています。一つは辻や戸口にたつ餓鬼に、彼らの為になるようにと唱えつつ、飲食物を供える。二つめは餓鬼の為に僧団にお布施することです。この布施の功徳を餓鬼に回向するのです。そしてそれは因縁ある者らに対する私たちの義務であると説かれています。

※因縁ある者らとは、その土地に縁のあるものという意味で、死後すがるもののない者たちは、因縁のある家や土地に戻ってくるといわれています。

阿含経に説かれた「本地垂迹説」

前回、さまざまな因縁に苦しむ衆生に対して、その衆生の目線にまで下りてくださり、共に因縁解脱を目指してくださるような仏さまがいたら、素晴らしいことではないでしょうか。釈迦牟尼世尊こそ、そうした大慈大悲のお力を持つ仏さまでした。

と、述べました。

それは勝手に私が推測して言っているのではありません。阿含経にはっきりと記されている釈迦牟尼世尊の力であります。

 

アーナンダよ。 ここに八つの集いがある。その八つとは何であるか? 王族の集い、バラモンの集い、資産者の集い、修行者の集い、四天王に属する衆の集い、三十三天の神々の集い、悪魔の集い、梵天の衆の集いである。


アーナンダよ。わたしは幾百という王族の集いに近づいて、そこでわたしが、かつて共に集まって坐し、かつて共に語り、かつて議論に耽ったことを、ありありと想い出す。その場合わたしの(皮膚の)色は、かれらの(皮膚の)色に似ていた。わたしの声は、かれらの声に似ていた。
わたしは〈法に関する講話〉によってかれらを教え、諭し、励まし、喜ばせた。ところが、話をしているわたしを、かれらは知らなかった。ー〈この話をしているこの人は誰であるか? 神か? 人か?〉といって。わたしは、〈法に関する講話〉によって、かれらを教え、諭し、励まし、喜ばせて、すがたを隠した。ところがすがたを隠したわたしのことを、かれらは知らなかった。―(この、すがたを隠した者は誰であるか? 神か? 人か?といって。


アーナンダよ。わたしは幾百というバラモンの集いに近づいて……(略)
資産者の集いに近づいて….
修行者の集いに近づいて……
四天王に属する衆の集いに近づいて……
三十三天の神々の集いに近づいて……
悪魔の集いに近づいて……
梵天の集いに近づいて……
そこでわたしが、かつて共に集まって坐し、かつて共に語り、かつて議論に耽ったことを、ありありと想い出す。その場合にわたしの(皮膚の)色は、かれらの(皮膚の)色に似ていた。わたしの声は、かれらの声に似ていた。わたしは法に関する講話》によってかれらを教え、諭し、励まし、喜ばせた。ところが、話をしているわたしを、かれらは知らなかった。――(この話をしているこの人は誰であるか? 神か? 人か?)といって。わたしは、〈法に関する講話〉によって、かれらを教え、論し、励まし、喜ばせて、すがたを隠した。ところがすがたを隠したわたしのことを、かれらは知らなかった。―(この、すがたを隠した者は誰であるか? 神か? 人か?といって。

パーリ長部経典、大パリニッバーナ経

漢訳阿含経、遊行経にも同様の箇所があり、

そこでは、精進力、定力をもって至る所に出現したとあります。解説には仏が自己の本地を隠して八衆を救済する仕方がきわめてすぐれていることを述べているとあります。

参考文献:現代語訳阿含経典「長阿含経」第一巻 平河出版社

 

このお経は、ブッダのもつ不思議な能力を示しています。これを変化身といい、ブッダは望むものになんでも変化することができました。ブッダはこの能力によって、さまざまな衆生を救うことができたのでしょう。たとえば六観音は、こうしたブッダの変化身が発展してできた尊格と思われます。

この思想はやがて本地垂迹説として日本にも受け継がれました。

本地垂迹とは、仏教が興隆した時代に発生した神仏習合思想の一つで、神道八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする考えである。 ウィキペディア

 

六観音コトバンクより)

仏語。六道にいて、衆生を救うという六体の観世音菩薩。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道に配置された観音。すなわち、地獄以下の六道に応じて順次、古くは大悲・大慈・師子無畏・大光普照・天人丈夫・大梵深音の六観音とされたが、密教では聖・千手・馬頭・十一面・准胝(じゅんでい)・如意輪(にょいりん)の六観音とも、准胝の代わりに不空羂索をさすともいい、また、千手・聖の三観音を入れかえる説もある。