阿含経を旅して

阿含の教えに学ぶ

仏陀の大脳開発法02

しかしながら、ブッダの教えのどこに、やる気のスイッチが大脳基底核側坐核にあるなどと説かれているのか?と疑問にもたれるかたもいらしゃるでしょう。

パーリ聖典のアーナパーナ・サンユッタには、

「我、心行を覚して入息せん」と学し、「我、心行を覚して出息せん」と学し

「我、心行を止めて入息せん」と学し、「我、心行を止めて出息せん」と学し

というフレーズがたびたびでてきます。

この心行というのは、いつも身行と対になるフレーズで構成されており、チッタ・サンカーラといいますが、このチッタがどこにあるのでしょうか。身と対になる箇所、すなわち大脳であります。サンカーラとは多義的な言葉ですが、潜在形成力とか構成要素などと訳されています。多義的な言葉は語根を突き止めると、明瞭になります。語根は kṛで、何かを作る、または心、思考を向ける、巡らせるという意味があります。

ブッダはここで、大脳に心を巡らせなさい、turn the mind or thoughtsと説いています。どこにでしょうか? 大脳を構成する要素にほかなりません。

そこまで断言できるのは、覚してというフレーズがあるからです。ここでいう覚(paṭisaṃvedī)というのは、経験する、感知するという意味で、ブッダはここで、まさに大脳の構成要素を感知しなさいと説いているのです。そしてそれは呼吸を通じておこなうことでしか、実現しません。何故なら仏陀の説く呼吸法は四神足に深く関連し、四神足は生命中枢を制御する方法だからです。さらにいうなら、呼吸とは、単に酸素を取り入れることではなく、ヨーガでは常識とされる生命力、プラーナを呼吸によってとりいれるということですから、プラーナを大脳の構成要素のひとつひとつに巡らせたり、止めたりしなさいと説いているのです。

これを仏典から発見したのは、おそらく阿含宗開祖、桐山靖雄大僧正が初めてだと思います。ここは、誤解をさけるため、下記の本をぜひご一読お勧めします。

大脳の構成要素のいちいちを覚知するなどということは、不可能だとお思いでしょうか。わたしも最初は意味が分かりませんでした。しかし、瞑想をつづけるうちに、まるで目が見えなくても、ゆびの一本一本の感覚がわかるように、大脳を構成する器官を感じることができるようになるのだということを確信するようになりました。

開祖は人はだれでも五つの超能力が持てると説いていました。

その五つとは、猊下の著書『変身の原理』にある、

1事物の明確な認識と予知および正確な選択力

2すぐれた高度の創造力

3自分を変え、他人を動かし、自分の思うままに環境をつくり変える力

4強靭な体力と卓抜な精神力

5すさまじい爆発的な念力による願望達成力

はじめにこの著書を読んだときは、これは誇張で、一部の天才には可能かもしれないが、自分にはとうてい無理だと思いました。しかし最近は大脳の器官にはそのような力を生み出す部位が事実あり、その部位がある以上はだれでもが五つの超能力を持つことができると主張するのは、けっして誇張ではないと考えるようになりました。

このような五つの超能力は、大脳を自在に運用できるようになれば、だれでも不可能ということはありません。もちろん、いうだけならたやすいことですが、そのような力を生み出す器官があなたや私の大脳にも確かにデフォルト実装されているのであります。

これは、まさにブッダの四神足法を現代的に意訳したものといえるのではないでしょうか。

 

仏陀の大脳開発法

四神足はブッダの成仏法の核ともいえる、瞑想による大脳の開発であることは、以前ご紹介しました。欲神足は倶舎論記などで「欲三摩地断行成就神足」などと解説されますが、要するに意欲を自在に制御する瞑想法です。人間なにをなすにも意欲がなかったらできません。その意欲の源はどこにあるのでしょうか。大脳生理学では大脳基底核側坐核にあるということが分かっています。この部位を瞑想で刺激することにより、やる気が出てくるのであります。2,500年前のブッダがこの脳の機能を知るだけでなく、活用法まで教えていたとは、まさに驚異です。

では、なぜそんなことがいえるのか? そのカギは呼吸法にあります。まえにも書きましたが、ブッダの呼吸法は、呼吸中枢を担う脳幹を通じて間脳にいたり、自律神経を一時的に制御して、シータ波を作り出します。このシータ波は、海馬を刺激して、海馬から脳弓、帯状回側坐核をめぐり、やる気を起こさせるのです。

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また、シータ波の刺激が海馬の記憶力を増大させることもわかってきました。さらに海馬から脳弓、帯状回前頭前野を刺激することで、扁桃体の働きである怒りや不快な感情を抑制して前向きな感情を引き出せることもわかっています。聖人や仏菩薩の頭部で輝く光輪は比喩ではありません。実際に脳細胞は電気信号によって活動しています。活発に活動する脳細胞はその電気信号によって発光するように見えるのです。

瞑想をはじめて陥る魔境

瞑想を始めるということは、脳をいじるということでもあります。かき回すといってもいいかもしれません。瞑想によって潜在意識が目覚め始めると、潜在意識に封じ込められていた様々な抑圧意識が出現することがあります。

私の場合は、瞑想をはじめてから、しばらくして金縛りや悪夢にうなされるようになってしまいました。そして、それは瞑想をやめてからもずっとつづきました。長年、非常に苦しめられたのですが、阿含宗でご先祖供養をすることで、すっかりなくなり、安眠できるようになりました。

瞑想が流行すること自体はよいのですが、問題は潜在意識、またもっと深く眠る深層意識に押し込められたトラウマが出現することです。これに対応する具体的な処置はほとんどありません。

天台小止観などの指導書にはとらわれるな、とらわれなければ自然に消えると説かれていますが、本当のトラウマは一度出現したらそんな甘いものではありません。ですから小止観も最後には、善智識に近づけと説くのみであります。

さて、この抑圧意識ですが、『脳と心の革命瞑想』桐山靖雄著では、二種類が挙げられています。

フロイト型(潜在意識の抑圧意識)

⑵ソンディ型(深層意識の抑圧意識)

これらの抑圧意識を解消しないで、瞑想を始めてしまうと、人によっては私のように長年苦しむことになるでしょう。

フロイト型は個人の幼少期に受けたトラウマが原因となるものです。

ソンディ型は自分の誕生する以前、すなわち特定の先祖の欲求が自身の恋愛、友情、病気、死に方まで決定してしまうという理論で、家族的無意識によって自己の運命が支配されてしまうという理論であります。

これらを把握し、どのように解消するのか本書のテーマでもありますが、誤解をさけるため、瞑想を始める前に、ぜひ一読をお勧めいたします。

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追記

現代心理学を代表するリポット・ソンディ博士のこの特定の祖先の抑圧意識が個人の運命を反復させるという理論ですが、じつはジャータカ物語にある釈尊とその従弟、提婆達多の間にも見られます。

釈尊提婆達多の関係は、はるか昔の前世から、だまし討ちに会う釈尊と、だまし討ちにする提婆達多という構図です。提婆達多は生まれ変わっては、同時代に生まれ変わった釈尊をライバル視して、いつも敵対関係になります。もちろん釈尊は菩薩ですから意にも介さず、墓穴を掘るのはいつも提婆達多の方なのです。

この場合の運命の反復現象は、祖先の抑圧ではなく、前世の抑圧意識によるものですが、祖先と前世はどこかで縁があると考えられますし、生まれる以前の深層意識が運命の反復現象をもたらすという点では、ソンディの理論とも一致しています。

 

 

気づきの瞑想?

欧米でmindfulnessという初期仏教の瞑想法の一部が切り取られて、流行しています。それがまた逆輸入されてアジア諸国や日本でもよく、マインドフルネスとか、気づきの瞑想とか言われるようになりました。

簡単に言えば、自分の心や身の回りに起きることを注意深く観察しつづけていく心のトレーニングのことで、サティ、念(sati※⑴)といったり、ヴィパッサナー、観といったりします。

自分自身を客観的に見るという習慣づけは、さまざまな気づきをもたらしてくれます。たとえば、何かに腹が立った瞬間に、あ、自分は腹を立てていると気づきます。気づくことでそれ以上、エキサイトすることに自然とブレーキがかかります。

これを突き詰めると、縁起の法に気づき続けるということになります。

観自在菩薩. 行深般若波羅蜜多時. 照見五蘊皆空とあるようにです。

しかし、縁起の法に気づくだけでは、本当に貪瞋痴の三毒煩悩を浄化したことにはなりません。なぜなら貪瞋痴は、脳の奥ふかく、大脳辺縁系や、間脳の底に根を張っているからです。これを仏教では随眠ともうします。※随眠:随眠という名の無意識層『人間改造の原理と方法』桐山靖雄著

これは、眠っている煩悩のことで、いざとなるとスイッチが入り、暴れん坊将軍となります。こうなると、せっかくのマインドフルネスもどこへやら。いっぺんに水の泡になるのであります。脳のなかで、クーデターが起きるのです。お坊さんがなだめても、もうただではすみません。

思うに、気づきの瞑想には、なにか欠けているものがあるのです。

気づきには、サティ、satiという原語があります。しかし、サティ=気づきではありません。その意味は注意深く観察するという意味と、明瞭に想起するという積極的な意味合いがあります。

つまり、表面意識での想起、潜在意識での想起、深層意識での想起です。

潜在意識で想起、つまり思念するとどうなるかともうしますと、記憶された対象が、カメラやテープレコーダー、いまでいうバーチャルリアリティー映像となって鮮明に蘇ってまいります。

アーナンダは釈尊の説法を事細かに全て記憶したとありますから、念の達人であったのでしょう。

また、それだけでなく、深層意識の上で念が念力になると、念じたことと現象の境界があいまいになり、ついに火を念ずれば、火を現実化させ、仏を念ずれば、仏を現実化させることができるようになります。

これが仏陀の得意とした火界定のことです。つまり、念はそのまま三昧の究極の境地である、火界定につながっていくのであります。そして仏陀の火界定はその思念の強力な力により、他者をも成仏に導くのであります。

これがない念は、文字どおり、絵にかいた餅、あるいは文字だけのスローガンでしかなくなります。

気づきの瞑想のもとは、じつは、サティ、ありありと想起する力を強めることであり、そのためには潜在意識、深層意識の動員が欠かせません。そしてその力の極致が火界定であるということなのです。

※ 1) サティは梵語スムルティ。心に留める、思い出す、心に呼び出す、注意する、神の名前を呼び出す、暗唱するなどの意味がある。

 

  

  

仏陀の呼吸法で沙門果が得られるか?

沙門果として、

(四禅の次に)「自身の身体が、元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常的でない衰退・消耗・分解・崩壊するものであり、意識もその身体に依存している」と悟れる (= 「身念住」(身念処))
(その次に)「思考で成り立つ身体(意生身)を生み出す」ことができる
(その次に)「様々な神通(超能力)を体験する」ことができる (以下、神足通)

「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
梵天の世界にも到達できる」
(その次に)「神のような耳(天耳通)を獲得する」ことができる
「神と人間の声を、遠近問わず聞くことができる」
(その次に)「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)を獲得する」ことができる

などとありますが、仏弟子はなにもマジシャンになるために修行をしているのではありません。これは私たちが、人間存在(因縁)を超えて、自由な存在になることを表現したものでしょう。とりわけ、大切な果報として、

神と人間の声を遠近問わずに聞くことができる。

また、

他人の心を(自分の心として)洞察する力(他神通)を獲得することができる

とある箇所には注意を払うべきです。

なぜなら、人間が人間以上の存在になるためには、どうしても人間を超えた存在の導きが必要だからです。阿含経にも随所に、神霊や祖霊の導きによって仏陀にまみえることができたという話がでてまいります。

仏陀ですら、成道前に菩提樹を選ぶときには、精霊により守られ、歴代の仏陀たちが悟った場所と知ってそこを玉座と定めました。それは浄められた聖なる場であり、仏陀たちの思念に満ちた場だったのです。成道前に仏陀がそのような聖地を選んだというのは深い意義があります。

このジャータカ伝承の意味するところは、仏陀が修行によって、高い次元の霊的エネルギーを発する場所を感じ取る霊的な感性があったということと、高い次元の霊的エネルギーを発する聖地が成道のために必要不可欠であったとを物語っています。

だからこそ、仏陀は弟子たちに授けた成仏法に四神足法を加えたともいえるのです。

さて、仏陀の呼吸法や四神足法によって間脳を自覚的に活性化させることで、ひとは霊的世界に目覚めはじめ、神仏の導き(ご加護)を得ることができるようになります。

修行法だけでは、人間は人間存在としての次元を決して超えられないでしょう。

修行法と神仏の加護が加わって、初めて成仏法が成就します。

間脳はそのための受信機あり、また発信機でもあります。

 

四神足法は間脳を制御する技術

間脳は自律神経の中枢を担っています。交感神経も、副交感神経も間脳から出発して、延髄を通り全身の末梢神経へと伸びています。

自律神経とは文字通り、自律して動く神経で、心臓や肺臓、胃腸などのすべての臓器を支配しています。ところで、呼吸だけは、自律神経によって働きながら、唯一、横隔膜と肋膜によってある程度自由に制御することが可能です。

呼吸中枢は延髄にありますが、交感神経、副交感神経ともに延髄を通って間脳に通じています。この呼吸を意図的に操作することで、私たちは、間脳にアプローチすることができるのです。

呼吸法により、延髄で結ばれた間脳と全身の神経が一体となり、徐々に覚醒していきます。2,500年も前、この呼吸の秘密に気付いた人間がいました。それが釈尊です。

釈尊の言葉を残した阿含経では安那般那相応やパーリ聖典の入出息念経にみるとおり、呼吸法を中心とした教説として独立した内容を持っています。

また、釈尊がいかに呼吸法を重視したかということも、これらの経典にははっきりと記されています。またこの呼吸法によって得られる効果というものは絶大で、パーリ聖典によれば、いわゆる非想非非想所までの禅定や、四念処をマスターし、随眠(潜在的に存在する貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の六大根本煩悩)を永断し、諸漏を尽くすとあります。

禅定と四念処をマスターとありますが、この禅定と四念処はちまたに紹介されているような観念的な気付きの瞑想法にとどまらず、以下のような絶大な果報があるとされています。

 

『沙門果経』
パーリ語経典長部の『沙門果経』においては、釈迦がマガタ国王に仏教の沙門(出家修行者、比丘・比丘尼)の果報を問われ、まず戒律順守によって得られる果報、次に止行(禅定、四禅)によって得られる果報を次々と述べた後に、その先の観行(四念住(四念処))によって得られる果報を、以下のように述べている[2]。

(四禅の次に)「自身の身体が、元素から成り、父母から生まれ、食物の集積に過ぎず、恒常的でない衰退・消耗・分解・崩壊するものであり、意識もその身体に依存している」と悟れる (= 「身念住」(身念処))
(その次に)「思考で成り立つ身体(意生身)を生み出す」ことができる
(その次に)「様々な神通(超能力)を体験する」ことができる (以下、神足通)
「一から多に、多から一となれる」
「姿を現したり、隠したりできる」
「塀や、城壁や、山を通り抜けられる」
「大地に潜ったり、浮かび上がったりできる」
「鳥のように空を飛び歩ける」
「月や太陽をさわったりなでたりできる」
梵天の世界にも到達できる」
(その次に)「神のような耳(天耳通)を獲得する」ことができる
「神と人間の声を、遠近問わず聞くことができる」
(その次に)「他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)を獲得する」ことができる
「情欲に満ちた心であるか否かを知ることができる」
「憎しみをいだいた心であるか否かを知ることができる」
「迷いのある心であるか否かを知ることができる」
「集中した心であるか否かを知ることができる」
「寛大な心であるか否かを知ることができる」
「平凡な心であるか否かを知ることができる」
「安定した心であるか否かを知ることができる」
「解脱した心であるか否かを知ることができる」
(その次に)「自身の過去の生存の境涯を想起する知(宿住通(宿命通))を獲得する」ことができる
「1つ、2つ…10…100…1000…10000の過去生を想起できる」
「それも、幾多の宇宙の生成(成刧)、壊滅(壊刧)を通して想起できる」
「それも、具体的・詳細な映像・内容と共に想起できる」
(その次に)「生命あるものの死と生に関する知(死生通(天眼通))を獲得する」ことができる
「生命あるものがその行為(業)に応じて、優劣、美醜、幸不幸なものになることを知ることができる」
「生命あるものが(身口意の)業の善悪により、善趣・天界や悪趣・地獄に生まれ変わることを知ることができる」
(その次に)「汚れの滅尽に関する知(漏尽通)を獲得する」ことができる
「苦しみ(汚れ)、苦しみ(汚れ)の原因、苦しみ(汚れ)の消滅、苦しみ(汚れ)の消滅への道(以上、四聖諦)を、ありのままに知ることができる」
「欲望・生存・無知の苦しみ(汚れ)から解放され、解脱が成され、再生の遮断、修行の完遂を、知ることができる」出典 六神通 -Wikipedia

また、漢訳経典にも無量種の神通力を得ようと欲するならば、この呼吸法を実践せよととかれています。

この呼吸法が四神足法と深い関係があることは言うまでもありません。もとより、このブッダの説いた呼吸法が、一種の健康法や、観念的な気付きの域にとどまるはずがありません。なぜならそれは大脳を改造し、人間をして、人間を超え、『沙門果経』にあるように、人にカルマを断つ力を与えるからです。

しかしながら、このブッダの説かれた安那般那念の具体的な方法は経典からではつまびらかにされていないのです。ただ、さまざまな種類の呼吸法が存在すると説かれているのみです。おそらく、言葉のみでは伝えきれない高度な技法であったためでしょう。

しかし、阿含経やパーリから、その断片を伺うことはできます。また釈尊の禅定から色濃く影響を受けたと思われる、ヨーガスートラや、仙道も参考にすることができます。

阿含宗開祖桐山靖雄師は、さまざまな実践的体験をもとに、仏陀の呼吸法から、四神足法までの成仏法を完全に復元し、ご著書『仏陀の法』で解き明かしています。

詳細は桐山靖雄師の上記のご著書をぜひご一読願いたいと思います。

教えの限界を突破する四神足法

ブッダは思想家としては、縁起、四諦、八正道の教えを説きました。けれども、これらの思想をどんなに理解しても、人間の心からは、貪瞋痴はなくなりません。大脳辺縁系に根ずく動物時代の名残をそのままにして、どんなに聖典を聞かせても、返って、自己抑圧、自己否定につながりかねないのです。

言葉の限界です。しかし、仏陀は貪瞋痴を消滅させる方法、成仏法という技法を残しました。これは教えではなく、技術なので、自ら実践するしかありません。それを七科三十七道品といいます。

その中心になるのが、四神足法であります。

もとより貪瞋痴は本を辿れば生命活動に由来し生命本能そのものでも有ります。

仏陀の成仏法は

大脳皮質、大脳辺縁系をこえて、直接間脳にアプローチして、始原の生命力をも制御する技術と言えます。

これは桐山靖雄師が『変身の原理』などで、40年以上前からしばしば説かれていたことでした。

するとブッダ、世尊が、経典で間脳を制御するなどということは聞いたことがないと違和感を覚える方もおられるかもしれません。

では、その証拠を経典をからご紹介します。

ブッダ最後の旅、中村元訳から

アー ナンダよ。いかなる人であろうとち、四つの不思議な霊力(四神足)を修し、大いに修し、(軛を結びつけた)車のように修し、家の礎のようにしっかりと堅固にし、実行し、完全に積み重ね、みごとになしとげた人は、もしも望むならば、寿命のある限この世に留まるであろう p.66

ブッダは、四神足によって、生命力を制御する力をだれでもが持てると断言し、望むならば、だれもが寿命をコントロールできるであろうと説いています。

この寿命のある限りの箇所ですが、実際には「kappaṃ vā tiṭṭheyya」

直訳しますと

一刧でも存続できる

一劫とは宇宙の存続時間にも喩えられる無限に等しい時間です。

パーリの原文に忠実な南伝大蔵経には、

四神足法の修練によって、一劫、あるいはそれ以上でもこの世に止まることが可能であると説かれています。

なぜ、寿命のある限りというような意訳をしてしまったのでしょうか?

訳者の中村元博士は、これを神格化の第一歩と考えているからです。

つまり四神足法は一種の健康法だと考えているのです。

しかし阿含経で説く禅定世界における肉体を超えた純粋な精神的存在をも含めれば一劫は不可能では有りません。

また、厳密にいえば、ここで『神格化』されているのは、仏陀ではなく、四神足法そのものであります。なぜなら、仏陀はだれもが、この四神足法を修練することで、寿命を制御する能力を身につけることができると説いているからです。

そして仏陀は弟子たちに四神足法を伝授しているのですから、仏陀を『神格化』したことにはなりません。

次のくだりでは仏陀が自ら生命の素因を捨てたとあります。

『アーナンダよ。そうしていま、チャーパーラ霊樹のもとにおいて、今日、修行を完成した方は、念じ、よく気をつけて、寿命の素因(いのちのもと)を捨て去ったのである』

やはりここでも仏陀が生命力を念じよく気をつけて捨て去ったとあり、自ら生命維持の為の素因を捨てたと明記されています。いうまでもなく、四神足法で得た生命維持のための制御力を、マイナスに行使したということです。

もっともこれも神格化と言われるのでしょうが。

さて生命維持の機構は主に間脳が担当しています。生命活動の中枢が間脳にある以上、仏陀は明らかにこの部位にアプローチできたと考えることができます。例えば

視床下部(ししょうかぶ)は、内臓の働きや内分泌の働きを制御し、生命現象をつかさどる自律神経系の交感神経・副交感神経機能および内分泌機能を全体として総合的に調整しています。
体温調節、抗利尿ホルモン、血圧、心拍数、摂食行動や飲水行動、性行動、睡眠、子宮筋収縮、乳腺分泌などの本能行動、怒りや不安などの情動行動(大脳皮質・辺縁系皮質)の調節、自律神経系をコントロールする中枢の役割の他、内分泌(下垂体ホルモンの調節)の中枢も担っています。
(呼吸運動や血管運動などの自律機能は、中脳・橋・延髄で調節される)

出典
https://www.akira3132.info/diencephalon.html

貪瞋痴を制御し生命活動さえも制御する技法を仏陀がもっていたと考え無ければ、仏陀の教えは文字通り絵空事になってしまうでしょう。また実際にそうした技法が実在するならば、必ずそれは間脳へのアプローチになるはずです。